年別アーカイブ

  • 1946年(0件)
  • 1947年(0件)
  • 1948年(0件)
  • 1949年(0件)
  •  
  • 1950年(0件)
  • 1951年(0件)
  • 1952年(2件)
  • 1953年(1件)
  • 1954年(1件)
  • 1955年(2件)
  • 1956年(1件)
  • 1957年(3件)
  • 1958年(1件)
  • 1959年(0件)
  •  
  • 1960年(0件)
  • 1961年(0件)
  • 1962年(0件)
  • 1963年(0件)
  • 1964年(0件)
  • 1965年(0件)
  • 1966年(0件)
  • 1967年(0件)
  • 1968年(0件)
  • 1969年(0件)
  •  
  • 1970年(0件)
  • 1971年(0件)
  • 1972年(0件)
  • 1973年(0件)
  • 1974年(0件)
  • 1975年(0件)
  • 1976年(0件)
  • 1977年(0件)
  • 1978年(0件)
  • 1979年(0件)
  •  
  • 1980年(0件)
  • 1981年(0件)
  • 1982年(0件)
  • 1983年(0件)
  • 1984年(0件)
  • 1985年(0件)
  • 1986年(0件)
  • 1987年(0件)
  • 1988年(0件)
  • 1989年(0件)
  •  
  • 1990年(0件)
  • 1991年(0件)
  • 1992年(0件)
  • 1993年(0件)
  • 1994年(0件)
  • 1995年(0件)
  • 1996年(0件)
  • 1997年(0件)
  • 1998年(0件)
  • 1999年(0件)
  •  
  • 2000年(0件)
  • 2001年(0件)
  • 2002年(0件)
  • 2003年(0件)
  • 2004年(0件)
  • 2005年(0件)
  • 2006年(0件)
  • 2007年(0件)
  • 2008年(0件)
  • 2009年(0件)
  •  
  • 2010年(0件)
  • 2011年(0件)
  • 2012年(0件)
  • 2013年(0件)
  • 2014年(0件)
  • 2015年(0件)
  • 2016年(0件)
  • 2017年(0件)

お気に入りメンバー

[PR]
自費出版 図書印刷同朋舎

ぶどうの木さんが最近登録した自分史(経年順)

  • わが故郷(1952年4月|6歳)

    断片自分史(1)


    私が生まれたのは山陰線の江原駅のすぐ近くで兵庫県城崎郡日高町の借家だった。父は鉄道員で当時福知山の鉄道管理部へ通勤していた。父の実家は浜坂の三尾だったが鉄道員になったときから実家を出ていたらしい。
    姉は浜坂で生まれたが残り四人はみんなこの日高町で生まれた。私は五人兄弟の長男で五つ離れた弟は双子だった。その弟たちが生まれる前の晩のことを今でも覚えている。親戚の人が妹をおんぶしていて何かを語っていたが私はそばにあった七輪の火を眺めていた。そのときの炭の焔が真っ赤だったことと翌朝並んで寝かされていた生まれたばかりの弟たちの姿がまぶたに残っている。
    またふたつ違いの妹を両親が乳母車に乗せて長いまっすぐの道を一緒に歩いていたことが思い出される。それは妹が生まれて間もないころで股関節の脱臼のため病院へ通っていたらしい。そのときの日差しの照った砂利道の白さをいまだに覚えている。
    さらに、兄弟五人が同時にはしかにかかって臥せっていたときの苦しさも忘れられない。借家の窓に差す薄日がなぜか恨めしく眼に写っていた。
    昭和二十七年春。父の勤務している福知山への移転が決まり引越しを間近に控えていたころのことだと思う。父は今度住むところは戸締りをきちんとしていなければ泥棒に入られるぞとみんなに言って聞かせた。ちょうど東京からの出張の帰りか土産として落花生が菓子鉢いっぱいにありみんなはそれをほおばりながら新しい生活の始まるその都会を想像した。そしてその日に前後して耳に残っているのは消防車のサイレンの音がけたたましく鳴っていた。あとになって調べてみると隣の町で七戸が全焼するという火事が実際に発生していたのだった。
    結局、城崎郡日高町は生まれてから六年間だけの私の故郷の思い出であったが同時に幼稚園が嫌いでまともに通っていなかった幼稚園時代を過ごしたところでもあった。毎朝姉と一緒に出かけてもすぐ一人で戻ってくる毎日だったらしくそれを見つけた近所のおばさんたちが「また戻って見えましたよ」といつも母に言っていたらしい。
    とにかく人と一緒になって遊ぶのが苦手だったのか私はいつも家の近くにあった大きなゴム靴会社の工場の煙突の下でよく遊んでいたことを思い出す。煙突を見上げると風の音が聞こえていて今でも台風の風の音などを聞くと妙にその煙突の上で渦巻いていた音を思い出す。

    更新日:2017年6月1日コメントする(0)

  • 小学校時代の夢(1952年4月|6歳)




    昭和二十七年四月、福知山市立大正小学校に入学した私は毎日のように漫画を描いて遊んでいた。当時の少年雑誌には「冒険王」「面白ブック」「少年」「ぼくら」など数々の月刊誌が出ていてどれを見ても夢躍るわくわくした世界が私の想像心を煽り立てた。特に各誌とも競争して毎号、豪華な付録をつけ少年の興味や夢を誘っていた。
    描く漫画はたいてい人物描画で何の変哲もないものだったが描いている間は夢中で取り組んでいたらしい。とにかく自分の描きたいままに描きたかった。あるとき親は才能を見込んだのか近所の絵の先生を探し出し無理やり私を連れてその大家のもとへ挨拶に行くはめになった。
    そのとき私に渡されたものはこれまで見たこともない大きな画用紙が二枚だった。大家はこの白い紙面に自分の好きな絵を二枚描いて後日持ってきなさいと言ったのであった。
    あのとき私はその真っ白なそれまで見たこともない画用紙にいったいどんな絵を描いたのか詳細には覚えていない。ただ記憶に残っているのは無理に押し付けられてそれがかえって嫌な圧力と感じていたことは確かだった。
    小学四年生のころ、図画の時間のことは今でもはっきりと覚えている。まわりの同級生が私の席を取り囲み私の描く絵を興味深く見守っているのである。私は夢中になって絵を描き続けていた。その絵は町の歳末大売出しの風景画であり正面に私が一番興味のある「おもちゃ屋さん」の店の様子を描いていた。なかでも陳列されている幻灯機を特に強調して描いていた。当時の少年雑誌の付録でも幻灯機はあったが紙製で長時間裸電球を入れて見ることは不可能だった。その絵に描かれている幻灯機は黒光りのするブリキ製でいかにも重量感が漂っていた。描いているあいだ楽しくてそばに集まっていた同級生の視線などまったく気にならなかった。
    やがてその絵は通っていた小学校の講堂に張り出され、しばらくたつと全市内のコンクールへ出品されそこで「金賞」を獲得するのであった。無理やり私を絵の大家のところへ連れて行った親はその成果を喜んだかどうかは分からないが私の絵に対する興味は習うことではなかった。それにその与えられた画用紙に何を描いたかも思い出せずしかも大家とは一回きりで終わったような気がする。
    その後も漫画を描くことに夢中になった私は五円か十円の小遣いをためてはワラ半紙を買いに行き自分で漫画のストーリーを作ったり相撲や野球の絵ばかり描いた。当時母は漫画を卑下していた。「あんなものばかり読んでいるとアホになるで」とよく叱られた。
    しかし私にとって漫画の世界は心躍る夢の冒険心を養ってくれる唯一の安らぎの世界だった。

    更新日:2017年7月14日コメントする(0)

  • 幼年期における大きな出来事(1953年5月|7歳)


    断片自分史(2)


    六歳か七歳のころだったと思う。
    その日はぽかぽかと暖かく春の日差しが照っていた。京都府の福知山市に引越して来てからまだそんなに経ってはいなかった或る日、小学生の私は近所の友達と一緒にいつもの原っぱで遊んでいた。当時水内の鉄道宿舎の裏は広大な野原で防空壕や旧陸軍の歩兵第二十連隊が駐屯した面影が残っていた。大きな厩舎や洗濯工場の建物のほかいたるところにため池がありその練兵場は私たちにとって絶好の遊び場といえた。
    いつものようにため池の周りに腹ばいになって水面をすいすいと泳ぎ回るメダカの群れを眺めていた。それは見飽きることのない不思議な水中の世界だった。そばに二、三人同じように目を凝らしながらそのメダカの泳ぐ姿を眺めていた。そのうちのまだ幼稚園くらいだったと思うひとりが手を池の中につけてはしゃいでいた。次の瞬間、私の眼に写った光景はその子がメダカの群れの中を横切るようにして沈んでいく姿だった。それはあまりにもくっきりと彼の眼や口元の映像が水中の光を帯びるようにして私の瞼に残った。
    それから大騒ぎになり宿舎の人々は勿論のこと遠くからも大勢の人が押しかけ池の周りは大混雑になった。わが子の名前を狂ったように泣き叫んでいた母親、長い竿を持って必死に池をかき回していた人たち、何度も潜水を繰返しながら捜索し続けていた人たちの姿が記憶に残っている。
    やがて水死した幼児の遺体が引き上げられ野次馬はいっせいに帰り始めた。その大勢の足音を私は家のなかで聞いた。母が帰ってきた父にそのことを告げていたらしくすごい目つきで私を見つめていた。何となく私が責め立てられているような感じがした。
    「あのなかでお前が一番年上やったから近所の人々が…」
    というような言葉が混じっていた。私はただうなだれていた。父は「そんなことを言ってもまだ小さいから…」とかばってくれた。
    今でもあの日集まってきた群衆が引き揚げていくときのざわめきとその道に舞い上がっていた土煙の異常な量を思い出す。

    更新日:2017年6月21日コメントする(0)

  • 台風の思い出(1954年9月|8歳)

    昔は台風がよくやってきた。台風の季節になるとどの家でも窓に木の平板を打ち付けてガラスが破れないように準備した。
    その日は父が出張していて留守のときだった。当時、私たち一家は父の勤める鉄道の官舎に住んでいた。父は管理局で仕事をしていてよく会議のため二、三日留守にすることがあった。ちょうどその日は台風シーズンに入っていたのだろう。しかし、近づいていた台風の情報などまだ小学生の私たちにとっては知る由もなかった。いつものように大きな窓のある六畳の間で遊んでいた。午後から降り出した雨は次第にその強さを増し、風もひときわ唸るようにして吹き突けていた。
    「こんな時に何も出張しなくても…」
    母は板の張り付けてある近所の窓を眺めて出張中の父のことを愚痴った。わが家だけがその準備がなされていなかったのである。ラジオの予報を聞いていた母は近づいてくる大型台風にただならぬ不安を抱いていたかもしれなかった。
    兄弟五人がまさに遊びに熱中しているそのとき突然六畳の間の窓ガラスがけたたましい音を立てて割れた。ものすごい疾風が吹き込んできて部屋中が渦を巻くような光景だった。
    「早く畳を上げて」
    吃驚した子供たちを叱咤するように母が動いていた。そんな母を見たのはそのときが初めてだった。みんなは顔に激しく当たる強風と雨のしずくに眼を細めながら母を手伝い、その部屋の畳を持ち上げて必死になってその破られた窓に当てがった。ヒューヒューと強風は容赦なく畳を揺らし続け、怯えながらも私たちはそれを両手で食い止めていた。

    あれから六十年が経つ。穏やかな昼下がり、遊びに興じていたさなかの一瞬の災禍に驚愕し、狼狽えた。思わず隣の部屋に駆け込んで押入れの祖母の仏壇に手を合わせて「助けてください」と拝んでいた自分の姿を思い出す。弟は割れた窓ガラスの破片で手を切り、またどういう訳だったか階上からは異常ともいうべき水が玄関に流れ込んできて、さながら地獄絵を見る有様だった。
    翌朝の新聞に最大瞬間風速三十八メートルを記録!と出ていた。
    それ以後、住んでいた町の中心部が全部浸水するという台風もあったし、全国的な記憶として昭和二十九年の洞爺丸沈没事故の台風もあったが、あの日の午後突如として我が家の窓ガラスを破って通り抜けた台風の思い出だけはいつまでも心に残っている。
    それにしても母があのとき咄嗟に下した行動はいったいどこから来たものだったのだろうか。今でも不思議に思うことのひとつである。


    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 記憶に残るラストシーン(1955年6月|9歳)


    今から五十数年前、昭和三十年代はまだテレビはなかった。小学校時代の楽しみといえばもっぱら映画を観ることだった。当時、日曜映画のほかに時折、近くの小学校の講堂で開かれる映画会があった。大抵は夕飯を済ませてからの時刻からそれは始まり、家族連れで大勢が押しかけて鑑賞したのであった。
    父が亡くなってからちょうど二十年になるが、未だにその父に尋ねた幼い頃の自分の姿が焼き付いて離れない。それはその日観た映画会の内容であった。作品名は後から調べて分かったのだが、私が強く惹かれたのはその映画のラストシーンだった。
    一緒に寝床に入ってからもその映画のことが気になって眠れず、すでに寝入っていた父に何度も尋ねていたのである。
    「なぜ汽車に乗ってまでして遠くの学校へ行かなあかんの?」
    親と別れて上の学校へ進学するという意味が当時の私には理解できず、そのラストシーンの映像がいつまでも頭のなかから離れなかった。自分くらいの少年が親元から離れるという光景がたまらなく寂しいものにみえた。それは子を送り出す主人公の親の寂しさも強烈に滲んだ映像だったからである。去りゆく列車をどこまでも追いかけ、遂には併走していた馬から転げ落ち、それでも尚且つ線路に這いつくばって息子を見送る主人公の姿が目に焼き付いたのだった。
    「遠くへ行きたくないなあ」
    子供心に親と離れることは辛いと思った。
    「僕もそうなるのかなあ」
    心配になって私は父に何度も問いかけていた。
    「お前も大きくなったらいずれそうなる…」
    寝息に混じった父の声が微かに聞こえた。それは安堵感に満ちたようなつぶやきであり、また映画の内容とは別のことを意味するような感じだったが、私は依然として不安と寂しさに包まれてその夜はしばらく眠れなかった。
    それから何年ものあいだその映画のワンシーンが脳裏に焼き付いて離れられなかった。そしてもう一度あの映画を観てみたいと思うようになっていた。
    早速、ネットで調べその映画は「馬喰一代」という作品で大映映画の作品であることが判った。そして遂にその作品のDVDを購入することが出来た。果たして記憶に残るラストシーンは本当にその通りだったのかどうか。古希を迎えた或る日、私は期待に胸躍らせながらそれを鑑賞するに至った。
    問題のシーンは記憶通り最後の場面であり、旅立つ息子の列車が遠くに消え入るまで線路に耳を当てながら見送る主人公の姿が再現された。映像は間違いなく私が小学生時代に脳裏に刻み込まれたあの感動的な姿を甦らせてくれた。
    今となっては他愛のない些細な出来事だが当時の私にとっては進学のため親との別れがそのようにして必ずあるものだと信じ、子供心にもひとりで旅立つ寂しさを感じたのであった。
    そのまんじりともできなかった自分自身の素朴な純真さに思わず胸がほんのりと熱くなるのである。

    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • めぼとうるしかぶれ(1955年11月|9歳)


    幼少期の記憶がないので恐らく小学生時代のことだと思われる。私はしょっちゅうめぼを出していたようだ。めぼとは瞼のうえにできる小さな腫物(はれもの)のことでものもらいとも呼ばれる。
    「わっ、またできている」
    「あかくなっていぼみたいやで」
    「痒いやろ」
    兄弟たちからいつもそう言われて顔を覗かれた。たいていは一週間かそこらは痒いのを我慢していると自然と治った。
    もうひとつ兄弟のなかで私だけが異常ともいえるアレルギー症状があった。山に行くと必ずうるしにかぶれるのである。うるしは普通はだれでもかぶれるのだが私の場合、特に悲惨だった。最初は手の先部分だけに出ていた赤い斑点が掻いているうちに益々広がり腕の先半分くらいがじゅくじゅくと化膿したようになる。四、五日後にはまるでお岩さんみたいな形状を呈するのであった。
    それでも毎年、秋口から晩秋にかけて私は家の近くの山林に出かけては落ちている栗を拾い集めた。栗ご飯が出来るくらい拾ってきたこともある。私の故郷の丹波栗は結構有名で実も大きかった。
    「またかぶれたな?」
    両親の苦笑いを尻目に私はこのうるしかぶれに凝りもせず秋になると丹波栗求めて林のなかを探索した。
    めぼもうるしかぶれも私の小学時代の年中行事みたいな思い出であるが当時の住んでいた国鉄宿舎にも大人たちが醸(かも)し出す活気にあふれた行事がたくさんあった。
    運動会もそのひとつだった。
    宿舎の裏は広大な空き地でまだ一部防空壕の残る野原であったがある年、五十世帯余りの宿舎の運動会が開催された。普段見るおじさんやおばさんがこの日ばかりは子供たちと一緒になって走ったり綱引きをやったのであった。
    当時は隣の親爺が他人の子供を厳しく叱った。それで当たり前の時代だった。しかし、恐い親爺もこの運動会のときにはニコニコして走り終えた私たちに賞品をくれた。
    今から思うとあの行事を企画した大人たちの柔和で逞(たくま)しい躍動感が伝わってくるような気がする。特に娯楽がなかったといえる戦後のまだ全体が貧しかったころの出来事であったからであろう。
    めぼはいつも鬱陶(うっとう)しく、うるしにかぶれた手は薬を塗ったり包帯を変えたりしながら、いつも治るのを待ちつづけた小学生時代がまるで宇宙の出来事のように思える。それほどいつのまにかめぼは出来なくなったし、うるしにかぶれてお岩さんのようになるようなことはまったく無(な)くなった。



    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 大相撲春場所の思い出(1956年3月|10歳)


    昭和三十年代、現代のように電子ゲームなどない時代は、子供たちは野外で遊んだり家に居るときは漫画を読みふけるか、手作りのゲームに興じたりしていた。テレビなどまだ普及していない時代だったので娯楽の中心はラジオであり、ラジオを通じてドラマやスポーツ選手などのヒーローに憧れたりしたものであった。
    私は大相撲が好きで、好きな力士は当時の横綱千代の山だった。実況アナウンサーの真似をして実際に自分で作った紙相撲に熱中した。一人で興じる紙相撲のほか勿論、野外でも近所の仲間と大相撲何々場所と勝手に名付けて開催し、日毎の取組みを作成して遊んでいた。
    どうしても一度生(なま)の大相撲が観たいと思っていたある日、親父と一緒に大阪に出る機会があった。
    ちょうど春場所が大阪で開催されていてまたとない絶好のチャンスだった。しかし、大阪府立体育会館までは行ったのだが、結局中には入らず親戚のうちの近くの喫茶店で親父に連れられテレビ観戦したのだった。でも私にとっては歓喜に震えた。
    二時間近くも喫茶店に居座ったのではないだろうか。心配して親戚のおじさんが店を覗きにやって来たことを覚えている。ジュース一杯で長時間粘られては商売の邪魔になるところだが店の人もニコニコしながら私を見つめていた。私はしきりに画面に映った力士の解説をしていたようだ。
    その日、千代の山は鶴ケ嶺と対戦した。そして私にはその日悪い予感がしていたことを今でも覚えている。結果、千代の山は負けたのであった。
    後年、私はその日の記事を読みたいと思った。六十年はすでに経っていた。あの日テレビで初めてみた千代の山が本当に負けたという記事を確かめてみたかった。
    中之島図書館へ出かけ六十年前の朝日新聞の当該記事の閲覧を申し出た。マイクロフィルムに保存された当日の記事に巡り合えた時、私は再び懐かしい歓喜に震えた。
    昭和三十一年・三月十九日。朝刊。大相撲春場所八日目。見出しに「全勝一人もなし」。栃錦、千代の山も二敗と。出ていたのであった。
    そして何気なく記事を読んでいて私はある事実に気付いた。それは何故あの日府立体育会館まで来ていながら中に入らなかったのか、分かったからである。
    それは記事の前文にこう書いてあった。
    大相撲春場所も十八日中日(なかび)を迎えた。好天気の日曜でもあり、四横綱に大内山らの好調が人気となり朝の六時頃から館前に列を作る有様で昼前には札止め。館内はいっぱいの観衆でふくれ上がるばかり。…という文言である。
    私は半世紀以上ものあいだ、あの日生(なま)の相撲が見れなかったのは親父に何らかの事情があって、そのために入れなかったとばかり勝手に思っていたのだった。
    あの日は満員札止めであったことを初めて知ったのだ。
    もし、そのマイクロフィルムの記事と出会っていなければ私は永遠に親父を誤解したままで終わっていたことだろう。

    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 坂道の上のパン屋さん(1957年5月|11歳)

    今でも不思議に思っている出来事がある。
    ひとつは坂道の上にあったパン屋さんの建物のことである。
    そこは日曜日に映画を観て帰り道に偶然に見つけた場所だった。小学生だったころ日曜映画と言って学校で指定された映画を街の映画館で観ることが出来た。当時の娯楽といえば映画しかない時代で映画に夢中だった私は朝早く起き、たいていは一人で観に行っていた。
    ある日のこと、映画が終わってその日は少し遠回りをして違ったコースで帰路についた。にぎやかな街なかを抜けて長閑な坂道が続いていた。晴れ渡った天気のいい日で映画を観終えた心地良い満足感が遠くに広がる青空に輝いているかのように見えた。そしてお昼前のせいもあってかほどよい空腹感が私を襲っていたかもしれなかった。
    その坂道は自衛隊の駐屯基地の正門に続く道であったのだが途中で左に折れなければわが家へは帰れない。ところがその分岐点に近づくと突然、芳ばしい焼きあがったばかりのパンの匂いが漂ってくるのだった。その分岐点を少し上がったところに一軒の小さな小屋みたいな建物があり、匂いはそこからやって来ることがわかった。
    外見は古ぼけた物置小屋にしか見えなかった。分岐点を少し上がって行き 私はそのパン屋さんのなかを覗いてみた。しかし驚いたことに店のなかは真っ暗で明かりすらついてなく店先にも陳列棚にもパンなど置いてなかった。人影すら見えず無人小屋同然といった感じだった。しかし、焼き立てのパンの香りは確かにここから広がっているのだった。
    それから半世紀以上経った今、あの芳ばしい香りは未だに忘れることはできない。むしろそれ以上に不思議だったのは無人小屋の印象だったかもしれない。朝一番にそこでパンを焼き上げた職人はどこかで休養していたのではないかと思う。ただひっそりとたたずむ坂道の上のパン屋さんには人は誰も見えずただ芳ばしい香りだけが午前の光のなかで充満していた光景。それは小学生の私にとって幻想の世界だったような気がするのだった。
    もうひとつはアップル水という飲み物である。
    家の近くに何でも売っている店があり、ときどき母親の買い物に付いていくことがあった。店の親爺さんは話し好きでよく長話をして商売をそっちのけにすることがあった。ある夏の暑い日、母親は店の親爺さんといつものように世間話に耽っていた。余りの暑さに痺れをきたした私は、暑いなあ、何か飲みたい、と訴えたのかもしれなかった。親爺さんは店の奥にあった木製の冷蔵庫から一本のジュースを取り出してきてその栓を抜いた。それがアップル水と呼ばれているものだった。ラムネは知っていたがアップル水はこのときが初めてだった。
    「暑いときはこのジュースが一番や。どやうまいやろ」
    とニコニコ笑いながら小学生の私を見つめていた。そのときそれまで飲んだことのなかった爽やかな味に驚愕したことを覚えている。そしてそのときから私はアップル水という名前を覚えたのだが、その後アップル水はおろかあの時の味を再現させてくれる飲み物に出会ったことがなかった。
    果たしてアップル水と呼ばれていたジュースとはいったい何だったのか。
    郷愁とは嗅覚と味覚に永遠に謎を残すものなのかもしれない。





    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 大切にしていたもの(1957年6月|11歳)


    小学生の頃、グローブが欲しかった。当時、野球が盛んで私たちはいつも宿舎裏の原っぱで草野球に夢中だった。
    当時私は大阪タイガース(現在の阪神タイガース)の大ファンで被っていた帽子も白の縦じまにO(お-)のイニシャルが入っていた。
    そのうち自分のグローブが欲しくなり好みの色や形にこだわり始めた。しかし、一番かっこいいグローブはものすごく高くとてもそれを親にねだることは不可能に思えた。
    やがて手頃な値段だったのか、親はグローブを買ってくれた。待望のグローブが目の前に現われたとき、色はあまり気に入らなかったが私は有頂天だった。少しでも使いやすくするため毎晩ドロースという油をグローブに塗りつけて布団に敷いて寝た。
    近所のチームとの試合はおおむね宿舎裏の原っぱで行われたが時にはもう少し外れた池のある林の空き地でやることがあった。
    その日の試合が終わって家に着いた時グローブを忘れてきたことに気づいた。急いで池のある空き地に行ってみたがどこを探しても見当たらず仲間に告げても誰も知らないと言った。
    大切にしていたグローブを失くし、意気消沈した毎日が続いた。どうしてもその池のある空き地のどこかにあることは確信していた。
    よく思い起こしてみるとその空き地には近くの商業高校の運動部の部室があった。あるとき、その部室のあたりをもう一度注意深く探してみようと思いたち一人で出かけてみた。
    するとその部室の前の物置箱のなかに見覚えのあるグローブが混じっているのを見つけたのである。間違いなく自分のグローブであった。部室の建物のなかから二、三人の男子生徒の話し声が聞こえていた。
    このグローブがなぜ物置箱に入れられていたのか不思議な気がしたがともかくこれは置き忘れて帰った自分のグローブだ。誰も見ていない。私は素早く自分のグローブを箱から取り出し、一目散に駆けた。
    ところが同時に背後から「こらッ」という太い叫び声が聞こえ、それはものすごい勢いであとを追っかけてきた。私は懸命に走った。これは私のグローブですと断ればよかったのか、でも証拠は何もなかった…私は必至で逃げた。
    高校生の足にはとてもかなわない。忽(たちま)ち私は林の角を曲がったあたりで咄嗟に遠くの草むらに向かってグローブを投げ、何食わぬ顔を冷静に取り戻しながら、遂に追いかけてくる高校生と対峙すべく居直って走ることをやめた。
    高校生は「なぜ黙って持っていく?」というような表情をしていたが、私が手に何も持っていなかったことに気づき不思議そうな目をした。何も持っていなければ問い詰めることはできない。しばらくして彼は引き揚げて行った。
    どこかに隠したことを彼は気づいていたかもしれない。彼を見送りながら私は安堵したがこころのどこかですこし後ろめたさが残った。
    「これはぼくのグローブです」と正直に申し出ていればもっと気持ち良く帰れるはずだった。草むらにいったん隠したグローブを手にしながら本当は嬉しいはずの私の気持ちは家に着くまで複雑に揺れ動いていた。


    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 小学校時代の遊び(1957年12月|11歳)


    昭和二十一年の後半から三十年代の前半が私の小学校時代だった。当時はラジオと映画が娯楽の中心であり、ラジオではプロ野球や大相撲の実況にかじりついた。阪神の田宮や横綱千代の山に熱中した。野球をするときは阪神のOというローマ字の入った野球帽を被った。小学五年生の夏、初めて甲子園球場へ父に連れて行ってもらい阪神巨人戦を観戦した。阪神はぼろ負けだったが観戦中出てくる選手の名前や試合内容をいちいち放送するかのようにしゃべりまくっていたようで周りの人が微笑んでみていたことを覚えている。相撲は宿舎の仲間と裏の広大な原っぱや洗濯工場跡などでよく取ったものだったが、自分でも紙で力士を作って本場所さながらの番付から取り組み、星取表まで作成して遊んでいた。
    また、映画では「鞍馬天狗」に熱中したほか東映映画の時代劇が盛んで「笛吹き童子」や「紅孔雀」などを観てはその都度ヒーローになりすましてチャンバラごっこをした。当時「日曜映画」というものがあり学校が指定した映画は小学生でも映画館へ行って観ることが許された。だからそんな日曜日は朝早く起き母にせがんで十五円を貰うと急いで家を出た。
    そんなある日、母が「汚れなき悪戯」という外国映画の素晴らしさを語ってくれた。私はその話を聞いて自分もそんな映画を作りたいと胸をときめかした。いろいろとその作品に似た構想を考え配役まで決めていたのである。そのためにはどうしても映画を撮影するカメラが必要であった。
    当時、森永キャラメルの包装紙でエンゼルマークが五つか六つきれいに印刷されているものを何枚か集めると映画を撮ることのできる撮影機が抽選で当たるという広告が出ていた。私は早速その撮影機が欲しくてたまらなかったため兄弟や友達に森永キャラメルのマーク集めを依頼した。しかし、いくら買ってもエンゼルマークが五つか六つ印刷されている包装紙は見つからず結局、撮影機は手に入れることはできなかった。
    その後も私の創作意欲は夢をふくらませラジオドラマを聞きながらあるとき劇の脚本を書いた。小学五年か六年だったか忘れたが「学芸会」のための脚本を書きクラスで寸劇をやった記憶がある。
    当時は常にラジオが生活のなかにあり生活の基本のような存在であった。朝食をとりながら「歌のない歌謡曲」が流れみんなそれぞれにあわただしく時間配分をすませ父は仕事場へ私たちは学校へと家を出た。日曜日にはNHKの「のど自慢」の鐘の音がどの家庭からも聞こえていたし夏は高校野球の熱戦に耳を傾けた。
    長い秋の夜長、私は一番くつろいでいた自分の姿を思い出す。黒い座敷机に父と向かい合って座り私はせっせと相撲の絵を描いている。丹前を着た父は仕事場から持って帰った仕事の書類を広げ何か作業をしていた。つけていたラジオからは「日曜名作座」(NHK)の美しいテーマ音楽が流れていた。





    更新日:2017年7月16日コメントする(0)

  • 一冊の本との出会い(1958年3月|12歳)


    野球や大相撲や映画に興味を抱く一方、小学校時代の私の将来の夢は一冊の本との出会いから始まった。
    日下実男の「すばらしい原子力」という本は果てしなく広がる未知の世界への興味を奮い立たせた。当時日本人としては初めて湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞し敗戦からの復興途上にあった日本はこれによって大いに誇りを持ち始めていたころであった。この本に書かれている原子理論の世界に魅せられた私は将来、物理学者になりたいと秘かに思った。
    今振り返ってみると理数系がダメな自分がなぜ物理学者にあこがれを抱いたのか皆目見当が付かない。ただ単に少年のころの自分の眼にその原子物理学の世界が夢の世界のように輝いて映っていたのか日下実男の噛み砕いた解説のなせるわざだったのかいまだによく分からない。
    中学校に入ってからもその夢は消えずあるときクラス担任の先生がひとりずつ面談を実施した。ちょっと変わり者の担任教師は面接場所を外で行なった。校門の正面入り口に椅子を置いて自分は時計台を眺める格好で座り各人を呼び出した。そのときのことを今でもはっきりと覚えている。私は「将来は物理学者になりたい」と言ったのであった。
    その後歩んできた人生を思うと日下実男という著者の名前と「すばらしい原子力」という本の題名をいまだに覚えていること自体不思議なことなのだがやはり当時は勉強していい学校に入って末は博士か大臣か云々という世相の表れのせいであったかもしれない。
    故郷にたまに帰ると九十一になる母親が私に言う。あれから半世紀にもなるが時々出会うその担任の教師が「元吾君は今、どうしていますか?」といまだに尋ねるらしい。
    物理学者になりたいと思ったのは恐らく湯川秀樹のように有名になりたいと憧れただけに過ぎず「すばらしい原子力」の本のせいでは決してなかったと最近になって気付いている。しかしその本は私の夢を羽ばたかせてくれたのは確かであった。それは決して物理学者になりたい夢そのものを指していたわけではなかったと思う。
    純粋に魅了された夢の世界のままであってこそ意味があったと今でも思うのだがそれを当時「将来の夢」として位置づけてしまわなければならない自分の性格があったかもしれない。それが証拠に肝心の勉強の方は一向に成績は上がらずいつまでたっても理科や数学の点数はダメであった。
    この本に出会ってから五十四年たった今、パソコンで検索してみると果たして日下実男著「すばらしい原子力」の本は実在していることが分かり何か懐かしい自分の遠い魂に触れたような気がして心が震えた。







    更新日:2017年8月2日コメントする(0)