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  • わが故郷(1952年4月|6歳)

    断片自分史(1)


    私が生まれたのは山陰線の江原駅のすぐ近くで兵庫県城崎郡日高町の借家だった。父は鉄道員で当時福知山の鉄道管理部へ通勤していた。父の実家は浜坂の三尾だったが鉄道員になったときから実家を出ていたらしい。
    姉は浜坂で生まれたが残り四人はみんなこの日高町で生まれた。私は五人兄弟の長男で五つ離れた弟は双子だった。その弟たちが生まれる前の晩のことを今でも覚えている。親戚の人が妹をおんぶしていて何かを語っていたが私はそばにあった七輪の火を眺めていた。そのときの炭の焔が真っ赤だったことと翌朝並んで寝かされていた生まれたばかりの弟たちの姿がまぶたに残っている。
    またふたつ違いの妹を両親が乳母車に乗せて長いまっすぐの道を一緒に歩いていたことが思い出される。それは妹が生まれて間もないころで股関節の脱臼のため病院へ通っていたらしい。そのときの日差しの照った砂利道の白さをいまだに覚えている。
    さらに、兄弟五人が同時にはしかにかかって臥せっていたときの苦しさも忘れられない。借家の窓に差す薄日がなぜか恨めしく眼に写っていた。
    昭和二十七年春。父の勤務している福知山への移転が決まり引越しを間近に控えていたころのことだと思う。父は今度住むところは戸締りをきちんとしていなければ泥棒に入られるぞとみんなに言って聞かせた。ちょうど東京からの出張の帰りか土産として落花生が菓子鉢いっぱいにありみんなはそれをほおばりながら新しい生活の始まるその都会を想像した。そしてその日に前後して耳に残っているのは消防車のサイレンの音がけたたましく鳴っていた。あとになって調べてみると隣の町で七戸が全焼するという火事が実際に発生していたのだった。
    結局、城崎郡日高町は生まれてから六年間だけの私の故郷の思い出であったが同時に幼稚園が嫌いでまともに通っていなかった幼稚園時代を過ごしたところでもあった。毎朝姉と一緒に出かけてもすぐ一人で戻ってくる毎日だったらしくそれを見つけた近所のおばさんたちが「また戻って見えましたよ」といつも母に言っていたらしい。
    とにかく人と一緒になって遊ぶのが苦手だったのか私はいつも家の近くにあった大きなゴム靴会社の工場の煙突の下でよく遊んでいたことを思い出す。煙突を見上げると風の音が聞こえていて今でも台風の風の音などを聞くと妙にその煙突の上で渦巻いていた音を思い出す。

    更新日:2017年6月1日コメントする(0)

  • 幼年期における大きな出来事(1953年5月|7歳)


    断片自分史(2)


    六歳か七歳のころだったと思う。
    その日はぽかぽかと暖かく春の日差しが照っていた。京都府の福知山市に引越して来てからまだそんなに経ってはいなかった或る日、小学生の私は近所の友達と一緒にいつもの原っぱで遊んでいた。当時水内の鉄道宿舎の裏は広大な野原で防空壕や旧陸軍の歩兵第二十連隊が駐屯した面影が残っていた。大きな厩舎や洗濯工場の建物のほかいたるところにため池がありその練兵場は私たちにとって絶好の遊び場といえた。
    いつものようにため池の周りに腹ばいになって水面をすいすいと泳ぎ回るメダカの群れを眺めていた。それは見飽きることのない不思議な水中の世界だった。そばに二、三人同じように目を凝らしながらそのメダカの泳ぐ姿を眺めていた。そのうちのまだ幼稚園くらいだったと思うひとりが手を池の中につけてはしゃいでいた。次の瞬間、私の眼に写った光景はその子がメダカの群れの中を横切るようにして沈んでいく姿だった。それはあまりにもくっきりと彼の眼や口元の映像が水中の光を帯びるようにして私の瞼に残った。
    それから大騒ぎになり宿舎の人々は勿論のこと遠くからも大勢の人が押しかけ池の周りは大混雑になった。わが子の名前を狂ったように泣き叫んでいた母親、長い竿を持って必死に池をかき回していた人たち、何度も潜水を繰返しながら捜索し続けていた人たちの姿が記憶に残っている。
    やがて水死した幼児の遺体が引き上げられ野次馬はいっせいに帰り始めた。その大勢の足音を私は家のなかで聞いた。母が帰ってきた父にそのことを告げていたらしくすごい目つきで私を見つめていた。何となく私が責め立てられているような感じがした。
    「あのなかでお前が一番年上やったから近所の人々が…」
    というような言葉が混じっていた。私はただうなだれていた。父は「そんなことを言ってもまだ小さいから…」とかばってくれた。
    今でもあの日集まってきた群衆が引き揚げていくときのざわめきとその道に舞い上がっていた土煙の異常な量を思い出す。

    更新日:2017年6月21日コメントする(0)