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キョウダイセブンさんが最近登録した自分史(経年順)

  • 塾講師の本懐(1)(1965年5月8日|9歳)
    キョウダイセブン

    塾講師の本懐

    私が少年時代を過ごした昭和40年代は、日本アニメの黎明期で、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」に夢中になっていた。名古屋の駅裏には、屋根はビニールテント、足元は舗装されていない土、一斗缶に戸板を置いたような売り場でお菓子を売っていた。
    傷痍軍人が白服で、鍋を置いてお金を集めていた。
    しかし、東京オリンピックや大阪万博や、将来に夢と希望が持てる活気に満ちた時代だった。小学校時代は、勉強をした覚えがあまりない。マンガやプラモデルに夢中になっていた。
    中学時代は、教師の言うことに違和感を抱き、勝手に勉強していた。「アニマル・ワン」や「柔道一直線」などの劇画に夢中になっていたけれど、中学には格闘技のクラブがなかったのが残念だった。
    私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務していた塾まで挨拶にきた。
    私には姉が二人いて、男の子は私ひとりだった。小学校と中学校では成績がトップクラスだったから、父にとっては自慢の子だったらしい。父が亡くなった時に、母がそう言った。
    高校2年生の時までは、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかった。しかし、四日市高校は当時男子の割合が高くて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。
    今もその傾向があるが、当時も男子生徒は理系が多くて私はその中で理系に行くのが当然だと思って勉強していたが、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。
    それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系なら難関国立大に合格できるけれど、理系だとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。
    生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。しかし、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけだった。
    最初に
    「何かおかしいぞ」
    と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
    「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」
    と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
    「なんで私の授業を中断するのかな?」
    と相談したら
    「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」
    とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。
    not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。
    アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。
    もはや、高校生の時のように
    「頑張って勉強しないと」
    と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが
    「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」
    と言う。それで、
    「どういう意味?」
    と尋ねると
    「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」
    と笑っていた。
    しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。
    事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。
    その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。
    私はその頃には受験英語を捨てていた。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使っていた英語で通した。つまり、中学生レベルの英語を使って難解な内容を表現する英語だった。
    ところが、今はまた受験英語を指導している。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前から何も変わっていないのだ。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界なのだ。
    日本にやってくるALTが増えて、
    「日本の教科書はクソだ」
    とか
    「英語が話せない教師が英語を教えている!」
    と言っても誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばかり。
    そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。
    しかし、一体いつまでこのようなバカな状況が続くのか。
    でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。
    京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。
    ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、
    「いったい、だれが採点してんだ?」
    と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。
    京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいだった。私の英語がそんなレベルであるはずがない。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いてあったような古い口語で書いてみた。それでも、7割くらいの正解率だった。それで、最後の3回はアメリカで使っていたような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったではないか。
    やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。
    私の指導させてもらっている優秀な生徒も同じ感想を持っているらしい。
    「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
    と、京大医学部に合格した子が言っていた。それで、
    「この子たちなら、私の言うことが分かる」
    と、英語の添削を始めた。
    すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけで
    はない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効なのだ。
    大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。
    でも、そんなことを言ったら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせないプレッシャーが半端ない。
    みんな食っていかないといけないので、英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、そんなこと関係ない。自分の生活が優先。そういうことらしい。でも、それで犠牲になる生徒たちはどうなるのだ。大人の責任を放棄していることにならないか?
    北勢中学校にいる時は英語が一番嫌いだった。点数もよくなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目ではなかった。総合点でトップクラスにいたので、それで満足だった。
    試行錯誤を繰り返す私に父は
    「大学院に行きたいならお金は出してやるぞ」
    などと言った。
    数学に対する執着は残っていた。
    最初に
    「ボクは数学が苦手なのだろうか?」
    と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。
    当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
    点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
    「もうボクの頭には入りきれない」
    と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、
    「こんなのありえない!」
    とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、
    「証明できないと、使う気になれない」
    というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
    2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、
    「お父さん、ボク変だ」
    と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て
    「お前、何をしてんだ」
    と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。
    病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
    「アレ?高木くん、どうしたの?」
    と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。
    診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには
    「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」
    とのことだった。
    そうした経験を通して
    「自分は、どうも文系人間らしい」
    と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に
    「自分は先生かなぁ」
    とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。
    ところが、自分で塾を始めると
    「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」
    と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。
    そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。
    そういう優秀な子は
    「高校に入っても指導をお願いできませんか?」
    とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束だったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。
    それで、考えた。
    「灘高の入試問題の数学が解ける私なら高校数学も大丈夫かな?」
    と考えた。
    「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」
    と思って、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。
    それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎていた。まだトラウマがあり、手が震えた(笑)。しかし、驚いたことに、25年前の記憶が残っておりどんどん解けた。

    更新日:2017年5月8日コメントする(0)

  • 塾講師の本懐(2)(2003年5月8日|47歳)
    キョウダイセブン

    塾講師の本懐(2)

    中学の数学を徹底的に教え込んでいるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よく分からない。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。
    その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。
    そのくらいやらないと、優秀な生徒の指導には役立たない。成績開示をしたら、京大数学で7割正解だった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子を指導しても困らなくなった。
    しかし、そういう点数の問題だけではない。自分の中で大きな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖くなくなった。今では
    「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」
    とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので常に本番なのだ。
    今では、英語より数学の方がはるかに面白いと思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持っている。人間はそんなに簡単に分類できるものではない。
    文系だった私が今では
    「この世の現象は数式で表現されない限り、分かったと言えない」
    と信じている。これは、完全に理系の発想だろう。
    学校では習わなかった「数学3」も独学で勉強している。そうこうしているうちに30年も過ぎてしまった。まさに、
    「少年老い易く学成り難し」だ。
    ただ、分かったことがある。私は自分の指導させてもらっている理系女子のような才能はないのだけれど、人の何倍も苦労して数学を身につけたために「生徒はどこでつまづきやすいのか」がよく分かるようになった。これは、数学講師としてはスゴイ武器になるのだ。
    ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないことが多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れないと勘違いしてみえた。
    しかし、それもこれも必要なことだった。
    「とても頭に入らない」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。
    こうして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されている。
    考えてみると、高校生の時に吐きそうな思いで数式を見ていた時から30年が経過した。高校生の方は私もそうであったように2年後、3年後しか見えていないはず。そりゃ、そうだ。私もまさか自分がアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。
    父は亡くなる前に自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたのだろうか。今となっては分からない。
    私の進学に強い関心を示していたのは、自分の原体験があったのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったが、もう遅い。
    アパートの一室で塾を始めたら、生徒が集まりすぎて他のアパートの住人から自転車を勝手に置くなとか、子どもにちょっかいを出した塾生がいるとか苦情が着始めた。
    それで、土地をさがして塾を建てるしかなくなった。バブルの頃だったので、銀行も融資をしてくれそうだった。ところが、父が反対した。そりゃ、そうだ。自分の土地と家が担保に入るし、私が成功するかどうかなど分からない。
    29歳の若造が、何千万円も借りて、今後20年間返済していけるのか。誰だって不安に思うに決まっている。なのに、私はそんな父と大喧嘩をして押し切った。今思うと、若気の至りというより、無謀だった。今なら、絶対にできない。
    後に、バツイチになる原因のひとつは返済に必死になって、仕事ばかりやっていたことらしい。返済のほかに、娘が生まれて生活を維持するのに必死だったのだ。英語講師なのに、数学も指導できるようにしないと維持できそうになかった。
    一時は、夜逃げかという危機に陥ったこともある。そういう時に、救ってくれたのは、この数学の勉強だった。ネットが普及し、塾生の子たちがスマホを持ち始めたら、Youtube やアメブロに投稿を始め、通信生を募った。
    少子化、不況、過当競争などのため、毎年おなじことを繰り返していたら、クビを括らなければならないならない。絶えず、新しいことに挑戦して、ちょうどいいくらいなのだ。
    地元のラジオ局ができたら、動画、ブログ、ラジオの投稿、ホームページすべて「キョウダイセブン」という名で統一させて、知名度を上げる努力をした。今では、北海道から九州まで通信生がいてくれる。
    人によって、異なるだろうが、私の闘争心のひとつは少林寺拳法からきている。私はクリスチャンだから、本当は殴られたら「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」なのですが、私は無理。
    大学時代、教育学部の7割くらいが女子だった。栄の地下街を歩いていたら、後ろの方で
    「きゃっ!」
    という声がした。振り向くと、中年のおじさんがダッシュで逃げていった。どうしたのか尋ねたら、尻を触られたそうだった。その時、そのおじさんを追いかけて取り押さえることは出来なかったけれど、考えてしまった。
    追いついて格闘になったら、勝てるのか。もし、相手が格闘技を習っていたら、どうなるか。そんな単純な動機が少林寺拳法部に入るきっかけだった。ブルース・リーの「燃えよ、ドラゴン」にも影響されていた。
    練習を重ねて、東京のスタジオでジャッキー・チェンの前で拳法のデモンストレーションをやったこともある。
    塾を始めたあとも、マジメな子を守るためにロクデナシの生徒を力づくで押さえ込まないといけないことも多々あったのだ。少年時代に見た「鉄腕アトム」の世界が、確かにあった。
    話せば分かる相手ばかりではない。
    受験は、知的な面での格闘だ。負けたら、落ちる。こんなスタンスで指導をしているものだから、反発も多い。はっきり言って、一部の生徒や保護者からは、優秀な子をヒイキしていると誹謗中傷も多い。
    ここに、一人、その優秀な卒業生を紹介したい。仮に、A子ちゃんとさせてもらう。
    もう10年以上経ったから書いても人物が特定できないだろう。長く受験指導をしていると忘れられない生徒がいるものだ。A子ちゃんも、その一人だ。
    私の塾に来てくれたのは彼女が小学6年生の時のことだった。最初に面接した時に、一目見て
    「この子は賢い子だ」
    と分かった。学力を確認しようとプリントを渡したら、いつまで経っても提出しようとしない。完全に仕上げるまで粘る子だった。
    彼女は小学校の時から
    「私は医者になりたい」
    と言っていた。私の塾はそういう子が多い。しかし、家庭は金持ちではないので何がなんでも国立大でないといけないと覚悟していた。私の小学校時代とはえらい違いだ。
    中学校では猛勉強して常に学年でトップクラスだった。そして、
    「自治医大だと無医村に行けば学費が浮くとか聞いた」
    とお金がなくても医者になれる情報を集めだした。私もできるだけ協力して情報を収集した。
    そう思わせてくれる塾生だった。
    灘やラサールや東海の過去問を集めて練習する授業も彼女から始めた。そして、当然のように四日市高校の国際科に合格した。
    その頃、メールやファイルが普及し出したので私はさっそく
    「家庭学習中に出た質問はなんでも送れ」
    と塾生に檄を飛ばした。私は中学生は5科目、高校生は英語と数学に対応できるのだ。ところが、そんなサービスも怠け者には何の意味もない。
    しかし、A子ちゃんはほとんど毎日ファイルを送ってきた。その質問の内容も勉強していないと出来ない質問ばかりで感心することが多かった。私は、A子ちゃんからどれほどの力をもらったことだろう。実は、白状するが高校の数学を指導しようと決めたのは彼女の影響が大きい。まさか、塾生に背中を押されるとは。
    英語に関しては、高校の時に英検の準1級に合格した。だから、英検1級の先生が必要になった。私は彼女の書いてくる英文の日記を読みながら添削をし始めた。これが、後にネットによる通信生の募集につながった。まことに、A子ちゃんが私に与えた影響は大きい。
    1級レベルのアドバイスをすると、たいていの生徒の方は
    「何を言っているのか分からない」
    という反応だったけれど、A子ちゃんは私の意図することを即座に理解するため、授業も楽しかった。語彙や文法が正しければ良い英作文が書けるわけではない。
    当たり前だが、マナーやエチケット、採点官に対する思いやりが欠ける英作文は高く評価されない。学力だけではなく、そういう人間的な深みがないと見込みがない。浅い理解では京大などの難関大は合格できるものではない。
    実は、私に京大を7回も受けさせたのも直接的にはA子ちゃんの影響が大きい。
    「この子は日本の宝だ。何としても志望校に合格させなければ」
    と思った。出来ることは何でもやる。娘以外の人間で、私にそんな思いをさせたのはA子ちゃんが初めての生徒だった。
    A子ちゃんは、あるクラブに所属して大会で入賞する成績をおさめていることは耳にしていた。ところが、高校2年のある時、自主的にそのクラブを引退した。理由は分からなかったけれど、成績が伸び悩んでいたのが理由だということは推測できた。
    私は、彼女の覚悟というか気魄に驚いた。
    「先生はバツイチでも、1回結婚できたからいいですよ」
    と笑っていた。言葉の端々にクラブばかりか、彼氏も結婚も何もかも犠牲にしても医者になるんだという決意が満ちていた。彼女のクラスがある時は、楽しかったけれど緊張した。
    「この仕事を始めてよかった」
    私にそう思わせてくれた塾生の子は多いが、彼女はダントツの存在だった。
    A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。
    「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」
    そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと
    「お母さんが生命保険を解約するって・・・」
    と小さな声でつぶやいた。しかし、その目には絶対に合格するという覚悟が見えた。
    そんな貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。
    私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。
    女子に「質実剛健」という言葉はおかしいのだけれど、A子ちゃんにはピッタリの言葉。私は戦前の教育は知らないけれど、両親を見ていて想像はついた。歴史小説に出てくる一昔前の大和撫子。
    これは偶然ではない。今、私の塾に各中学校のトップクラスの生徒が何人もいるけれど、理系女子はほとんど女子度ゼロ。平均的男子より理路整然と話す。 そして、質実剛健。日本の未来は明るいと思わせてくれる。
    A子ちゃんは、その後「国立大学医学部」に現役合格して「旧帝の大学院」で学び、現在は研究職に就いている。私はA子ちゃんを長く見ていて思うことがある。
    A子ちゃんは気づいていなかったが、当塾では彼女の指導から生まれた教材群のお陰で、その後なんと「京大医学部」合格者が3人も続出した。私の塾の救世主でもあったのだ。
    現在の日本では、道を外れたギャル、ヤンキー、暴走族あがりの生徒や講師をもてはやしお金がそちらに流れる構造が出来ている。しかし、本当はA子ちゃんのように目立たなくても人々の役に立っている、道を外れない子にお金が流れるべきではないか。
    私は、A子ちゃんや、バツイチになって悲しい思いをさせた娘たち、私を大切に育ててくれた亡き父のために、立派な講師、父親、息子でありたい。こんなところで立ち止まっていられない。
    塾講師としてできることは、塾生の方を合格させることしかない。今年度は、京都大学や旧帝、国立大の合格者を10名以上出すこと。そして、そのノウハウを出版してより広い人に役立ててもらうこと。

    やるぞ!

    更新日:2017年5月8日コメントする(0)