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花蓮さんが最近登録した自分史(経年順)

  • 誕生(1970年3月|0歳)

    東京都にある日本赤十字病院で産まれた。
    父も母も30歳のときの子ども。
    私の前に一人、お腹に宿っていたが死産だったとのこと。
    男の子だったそうで、私は二番目の子でお兄ちゃんがいたかもしれない。
    残念ながら、親はこの後次の子供を産むことなく、私は当時は少ない一人っ子で育った。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 埼玉県へ引っ越し(1972年4月|2歳)

    父の会社の社宅のある埼玉県東部の市に引っ越し。
    社宅といっても平屋。
    2歳のころの思い出はないけど、家の記憶はある。
    どっぽん便所で、家の前は家庭菜園のできる庭があった。
    母の父(祖父)が私のために手作りで作ってくれたシーソーが置いてあった。
    どっぽん便所は怖くて仕方ない記憶がある。
    落ちてしまうんではないかと・・・。
    バキュームカーがきていた記憶も残っているし、お風呂はおそらく後付けだったのだろう。
    玄関を一度出て、お風呂のあるはじっこまで行かなくてはならなかった。
    いつもバスタオルを巻いて、家の裏側をいったりきたりしていたなぁ。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 一番古い記憶のある3歳(1973年4月|3歳)

    私が育ったところは、自然がたくさんで、夕方になるとコウモリがたくさん飛んでいた。
    近所のガキ大将さんに、ちびっこたちがくっついて、毎日畑や野原の中を駆け回る、そんな子ども時代。
    コウモリが飛んでくると、帰ろうかな合図だった。
    私の家には縁側があって、ガラガラ窓。
    友達が「花蓮ちゃん遊ぼう」ときたけど、「これからお昼寝するの」と答えた記憶がある。
    おそらくこれが3歳頃だったと思うんだなぁ。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 一番古い記憶の旅行(1973年8月|3歳)

    父の会社のひとたちと東北旅行。
    宮城、岩手、青森、秋田。
    4県をドライブ旅行したようだ。
    私の記憶では松島ではしゃぐ自分。
    母親に「麦わら帽子をかぶりなさい!」と怒られた記憶が
    なぜかあるんだなぁ。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 幼稚園入園(1974年4月|4歳)

    家のすぐそばに幼稚園があるのに、なぜか近所の子も誰もその幼稚園には入園せず、幼馴染はそこではない歩いて行ける幼稚園に通い、私はなぜか、バスで通うH幼稚園に入園した。
    キリスト教系の幼稚園で、母が選んだ幼稚園。
    年少とは言わず、年中さんと呼んでいた。
    今では普通の3年保育だが、当時は2年保育が主流の中、私の通っていた幼稚園は3年保育があったので、年中さんだった。
    すみれ組で、バスはパンダさんコース。
    パンダのバッチもつけていた。
    週に1度、放課後にやっている絵画教室にも通っていた。
    その日だけ、バスではなく母が迎えにくるのだが、母は自転車が乗れなかったので、長い距離をテクテク歩いて帰っていた。
    毎朝、母がバスの止まるバス停まで送ってくれて、そこから乗るのは私だけだったから、だるまさん転んだをしてくれたのを覚えている。
    キリスト教系だったからか?土曜日が休みだったので、土曜日は近所の幼馴染が通っている幼稚園に遊びに行き、一緒に紛れて教室で遊んでいた。
    そちらの先生も「花蓮ちゃんいらっしゃい」なんて言ってくれて、今思えば、本当に緩い時代だったんだなぁと。
    でも一人でその幼稚園に遊びにもいっていたし、幼稚園からの帰りのバスは迎えもなくて、一人でバス停から10分位歩いて家に帰っていた。
    たまにのら犬に追いかけられて、泣きながら帰るってこともあったなぁ。
    走ったらついていくるなんてこともわからないから、ひたすら泣きながらかえっていた記憶。
    今じゃ、親がいないのにバスから降ろすなんてありえないけど、当時はそういうのが全然大丈夫だった時代。
    ほんと今より世の中が安全だったんだろうなぁ。
    テレビで見たトゥシューズにあこがれて、バレエも習わせてもらったんだが、近所にクラシックバレエ教室はなく、モダンバレエ教室だった。
    本人は当時は知らず、楽しく通っていたが。
    発表会の前、母が衣装を縫ってくれた姿をいまだに覚えている。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 初キャンプ(1974年8月|4歳)

    父と母は当時少ない一人っ子な私に、冒険を小さいころからたくさんさせた。
    いろいろな場所にも連れていってくれたし、兄弟のいる友達宅へお泊りもよくしていたし。
    そして、4歳のとき、初めて一人でキャンプに参加した。
    食品メーカーが大きな公園で主催しているキャンプ。
    参加者は小学生まで。
    幼稚園な私は、おにいさんおねえさんに教えてもらいながら料理の手伝い、アスレチックをしたり、オリエーテーションをしたり、テントで泊まる一泊キャンプ。
    毎年8月、私が小学6年生になるまで参加をしていた。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • アグネス・チャン自転車で冒険(1975年4月|5歳)

    年長さんはコスモス組。
    遠足は、大宮公園だった。
    当時は親がくっついていく遠足が多い中、この幼稚園は子供だけで行かせる幼稚園。
    年長になって、課外教室の英語教室にも通うようになった。
    課外教室のあとは、いつも歩いて帰るので、母に「なんで自転車乗れないの?」ときくと「怖くて乗れない」と。
    当時、母は父と一緒に自転車の練習をしていたのも覚えているが、こどもながらに、なんで斜めに体がなるんだろう?という感じで、母に自転車に乗る才能はなかったようだ(笑)
    結局母は、亡くなるまで歩く人だった。
    私は、アグネス・チャン自転車を購入してもらい、毎日自転車で走り回る日々。
    幼馴染と冒険~~と称して、川を渡り、隣町までいって帰ってくる・・なんて遊びを幼稚園時代にしていた。
    みんな補助輪つけているのに(笑)
    昔の子供はたくましいよね。迷子にならずに帰ってこれていたのだもん。
    この幼稚園のときに知り合った友が唯一今でもつながっている。
    家族ぐるみでお付き合いして、ほんと長い付き合いができて感謝している。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 団地に感動(1975年7月|5歳)

    父の大学時代の友達が千葉にいて、たまに遊びにいっていた。
    ボックス型の団地の5階に住んでいて、私が遊びにいくのが楽しみだった。
    普段住んでいる家が平屋で、家の周りも高くて2階建てだったから、5階という高さがたまらなく、楽しかったのだ。
    その家には同じ年の男の子がいたので、いくたびに遊んだなぁ。
    旅行も何度か一緒にした。
    鴨川シーワールドとか行川アイランド、マザー牧場・・・
    千葉の旅はそこの家族との思い出が多い。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • ピアノが届く(1975年8月|5歳)

    我が家は毎朝モーツァルトの曲が流れているような家だった。
    両親がクラシック大好き!
    そんな両親がピアノを習わせたいと思ったらしく、我が家にピアノが届いた。
    ヤマハのアップライトピアノ。
    最初はうれしくて喜んで弾いていたが、そのうち毎日の練習もつらくなった。
    親が厳しくて、毎日最低は30分練習しろ!と言われていたから。
    でも、周りがやめていくなか、一番長く続いた習い事でもある。
    発表会は数回しか出たことない。
    先に進むのが遅くなるので、私はあまり出たいと思わなかったんだなぁ。
    発表会に出るとその曲ばかりの練習になるので。
    当時は、ピアノを持っている友達が多かった。
    女の子の習い事ナンバー1だったかもしれないね。
    私はエレクトーンを習っている子が色々な音が出るからうらやましくて、遊びにいってはエレクトーンを弾かせてもらっていたなぁ。
    あの足を使うのがたまらなく楽しかったのよね。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • 小学校入学(1976年4月|6歳)

    赤いランドセルを買ってもらい、T小学校に入学。
    1年2組で、1学年5クラスだった。
    小学校までは子供の足で45分位かかっていたようだ。
    通学路には野原がいっぱい、シロツメクサもたくさん咲いていて、
    帰り道は必ず花摘みをしたりして、ものすごーく時間をかけて帰っていた。
    1年生の遠足は川口グリーンセンターだったなぁ。
    社会科見学は桃屋だった。お土産ももらった記憶。
    1年生のときの担任の先生が、皆がいうことをきかなくて、大泣きしていた記憶も残っている。
    あとから母からきいたけど、当時新卒で担任だったようだ。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)

  • ちびっこパイロット(1976年7月|6歳)

    ちびっこパイロットという名前だったか、忘れたが、子どもが一人で飛行機に乗るというもの。
    私の両親は鹿児島出身で、鹿児島には父方祖父母、福岡には母方祖父(祖母はもう亡くなっていた)と母の兄弟、長崎にも母の兄が住んでいた。
    1年生になって、一人で飛行機に乗れるようになったことからか?なぜか、休みになると私は、一人飛行機に乗って、九州の親戚の家へ遊びに行っていた。
    日本航空、全日空、東亜国内航空、ちびっこの私は一人で飛行機旅を楽しんだ。
    羽田空港でお別れするときは寂しく感じなくて、飛行機に乗るのが楽しくて仕方がなかった。
    飛行機に乗れば、スチュワーデスさんが相手をしてくれるし、パイロットのいるコクピットの中にも連れていってもらったりもした。当時はプレゼントもたくさんもらえたし、写真も撮ってもらえた。
    今より、全然よかったと思う(笑)
    到着したら、おじやら祖母やら待っていてくれたしね。
    大人になって、なぜ親は私を行かせたのかな?と。父も母も九州に帰ることはほとんどなかった。
    当時は飛行機運賃は今みたいに旅割等もなかったから高かったからかもしれない。
    それか、子供がいない時間を仲良く二人でいちゃいちゃしていたかったのか?(笑)
    でも当時は、飛行機に乗ること自体が珍しかった地域なので、夏休み後は友達にうらやましがられた記憶もある。
    私の住んでいた地域は、親の田舎が東北の方が多かったかな。
    私はそのおかげか、今でも飛行機が大好きだ。

    更新日:2016年8月30日コメントする(0)