年別アーカイブ

  • 1976年(0件)
  • 1977年(0件)
  • 1978年(0件)
  • 1979年(0件)
  •  
  • 1980年(0件)
  • 1981年(0件)
  • 1982年(0件)
  • 1983年(0件)
  • 1984年(0件)
  • 1985年(0件)
  • 1986年(0件)
  • 1987年(0件)
  • 1988年(0件)
  • 1989年(0件)
  •  
  • 1990年(0件)
  • 1991年(0件)
  • 1992年(0件)
  • 1993年(0件)
  • 1994年(0件)
  • 1995年(0件)
  • 1996年(0件)
  • 1997年(0件)
  • 1998年(0件)
  • 1999年(0件)
  •  
  • 2000年(0件)
  • 2001年(0件)
  • 2002年(0件)
  • 2003年(0件)
  • 2004年(0件)
  • 2005年(0件)
  • 2006年(0件)
  • 2007年(0件)
  • 2008年(0件)
  • 2009年(0件)
  •  
  • 2010年(0件)
  • 2011年(0件)
  • 2012年(0件)
  • 2013年(0件)
  • 2014年(1件)
  • 2015年(0件)
  • 2016年(0件)
  • 2017年(0件)

お気に入りメンバー

[PR]
自費出版 図書印刷同朋舎

光沢天女さんが最近登録した自分史(経年順)

  • 光沢天女のようにジャンバーで輝いて☆( ^o^)☆(2014年12月25日|38歳)
    光沢天女

    光沢天女のナイロンジャージ女装の生活を赤裸々に書いた波乱万丈記です。

    ※ナイロンジャージ女装のあらすじ

    私が女装し始めたのは、父親からの虐待や家庭内暴力がきっかけです。幼少期から人と違ったフェティッシュを持ってました。ナイロン系にはとてもフェティッシュを感じていて、80年代前半当時、流行していた原色系のダウンジャケットにはとてもフェティッシュを感じてました。家庭内の環境からの現実逃避をする知恵が幼心にあったと思います。

    なぜ、ナイロン系のフェティッシュになったかと言うと、返答に困りますが、きっかけは、前記にも書いた80年代前半に流行していた原色系のダウンジャケットで青色のダウンジャケットを大好きだったいとこのお姉さんが着ていたのが、ナイロン系のフェティッシュになったきっかけです。

    それから、幼心にファッションに興味を持ち始めました。私が思春期になるになるにつれて、お洒落心に火がつき、ナイロンジャージ女装にまで発展していきました。

    ※1 幼少期の光沢天女

    私の幼少期は、身体が貧弱で、丈夫ではなかったと思います。日常茶飯事のように嘔吐を繰り返したり、中耳炎が原因で左耳難聴の後遺症も残ったり、物心ついた時には、2階のベランダから転落事故も経験しました。でも、母親には沢山、お洒落をさせてくれた思い出があります。でも、父親の家庭内暴力は相変わらずで、家族全員に飛び火が来るのが、日常茶飯事でした。母親はとても辛い思いもしたし、心の傷も深く負ったと思います。私には、妹が居てますが、私達兄弟も深く傷を負い、現在もトラウマを引きずりながら、日々、生きてます。

    ※2 黒ランドセルを背負った光沢天女

    私が小学校入学すると、勉強がとても出来て楽しかった。勉強がとても好きだった。特に算数が得意で100点もしばしばだった。それと同時にファッションにもかなり興味を持っていて、私に母親から着せてもらった赤の中綿ベストがとても可愛くてお気に入りでした。今のファッション好きの基礎を作った時期と重なります。なぜなら、いとこのお姉さんが青色のダウンジャケットを着ていた時期と重なっているからです。今でも当時流行した青色のダウンジャケットが欲しい品の一つであり、好きな色も青色が入ってます。
    時が変わり、阪神タイガース日本一になった1985年は私にとって、辛い経験の年になりました。その当時は小学3年生でした。1985年は理不尽ないじめに遭い馬鹿にされたあだ名まで付けられ、人を愛する•信じることが出来ない子供になってしまいました。心の拠り所がなく、友達もゼロに近い状態になるほど、コミュ障になってしまいました。その当時は昭和の時代の為、普通に鼻水を垂らしている子供が男子女子関係なく居た時代でした。思いっきり青っ鼻を垂らした子供が男子女子関係なく居て、私より年上の男子女子も普通に鼻水を垂らしていました。中学生でも鼻水を垂らしていた子供が居たような気がします。私は心の拠り所が完全に失っていた為、鼻水フェチにもなってしまい、今現在でも現役鼻水フェチです。特に女子の鼻水は特にフェチを感じます。私は心の拠り所を完全に失っていた為、ストレス発散の名目で鼻水フェチを逆手にとって悪利用し、鼻水を垂らしていた男子女子関係なく馬鹿にしてました。私に馬鹿にされたせいで心に傷を負ってしまった方にはこの場を借りてお詫び申し上げます。
    小学4年生になった1986年は薄日が麗らかに差してきた年になりました。新しい事に趣味を持ち、野球を始めるきっかけを作った年にもなりました。今までは勉強一本とファッションマニアの両刀使いの9年間でしたが、スポーツの分野にも進出出来るようになった年でもあります。今では運動神経は自信がありますが、当時は運動神経は自信がゼロでした。でも、この年をきっかけにスポーツの才能の種蒔きの成功にこぎつけることが出来たと思います。その当時は鼻水のキーワードのインパクトも陰が潜めつつあった時でいとこのお姉さんの青色のダウンジャケットのキーワードが再浮上した時期で、再びインパクトのスポットライトがいとこのお姉さんの青色のダウンジャケットに浴びることになっていきました。翌年の1987年頃までいとこのお姉さんが青色のダウンジャケットを着ていた記憶が残っています。正直な気持ち、私に青色のダウンジャケットを譲って欲しかった気持ちが今現在もあります。
    時は1987年、日本がバブル前期だった頃で私は小学5年生になった年です。その頃は走るのが大好きな子供で、俊足ぶりをいかんなく発揮していました。今現在でも俊足は健在です。なぜ、走るのが大好きかというと自分の特技をアピールしたかったのと、当時の女子マラソンの選手のMM選手の大ファンだったからです。当時の夢はマラソン選手でした。今のLEFT MAYAの基礎を作った草創期だったと思います。なぜ、LEFT MAYAいうと、今、プライベートになりますが、U医院のデイナイトケアセンターのプログラムでソフトボールがあり、私がキャプテンでレフトを守っていて、俊足強肩ぶりを発揮しているからです。それで、LEFT MAYAでネーミングを付けました。LEFT MAYAのルーツはソフトボールのポジションのレフトと女装名のマヤを合わしたネーミングだからです。
    翌年、1988年は、日本がバブルに沸いていた時代です。その頃も俊足ぶりは健在で、走る競技は、モチベーションが高い状態でした。その時は、ワクワクドキドキ感で嬉しかったです。マラソンの時は学年でも上位ランクにゴールしてました。その前年だったと思うけど、転校生の男子生徒が転校してきました。彼は鼻が悪く、いつも鼻水を垂らしていました。当時は彼のことをインパクトが強烈過ぎて、馬鹿にしてましたが、今は彼と和解し、仲良い友達になってます。彼には私が女装することもカミングアウトしてます。でも、彼は中学1年生頃まで鼻水を垂らしていました。たまに青っ鼻を垂らしている時もありました。

    ※3 学ランを着た光沢天女
    翌年、1989年は消費税が日本で初めて導入された年です。消費税3%で始まった時代ですが、日本はバブルの真っ只中で、強い日本があった時代で、少し消費が冷え込んだが、好景気に左右されることなく、バブル景気が続いた時代でした。
    話が変わりますが、前記に書いた転入生は中学生になっても鼻水を垂らし続けてました。その彼をモデルに想像上の人物を作り、彼の女子版の人物を今、作ってます。彼と同じ名字にする予定です。また、別版のフィクションで書いていきたいと思います。

    更新日:2014年2月5日コメントする(0)