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  • 菓子職を極める(菓子職人の家に生まれて)(1950年6月26日|0歳)

    高校時代、父は病に伏せ、苦しい闘病生活を送りました。家業を継いだ私にも、母にも、今のように介護制度がない時代で、ほんとに辛く厳しい時代が長く続きました。最近、私はこのように考えるようになりました。人生はそんな苦労の時期も必要である。いつの時代も、どん底の生活を味わえる人は大変に恵まれた人である。どん底の苦痛を味わえる時期には十分に味わう事である。気が狂うほど苦しむ事である。其の境地を潜り抜けた人には必ず夢の様な世界が必ず訪れる。夢を持つことである。

    「菓子職人」の講演会で、自らの体験と職業観、菓子の歴史の話を各地でおこなってきた時代もありました。50歳の時に茶席菓子と和菓子講習会の仕事を息子に譲りました。暖簾を継ぐ事は竹の節をつくる事であると考えます。先代の父に感謝しながら、跡取りが自分以上の腕になり、世の中に認めてもらえてこそ、継承の意味があります。

    要介護3級の認定を受けた母は96歳になりました。今は、ケアマネージャーやヘルパーさんにお世話になり、助けられながら、今日も一日終わりました。「おっかさん、ありがたい時代やな。親父は大変だったな。みんなに感謝やな。」母は「ありがとう。ありがとう。」といって、手を合せます。「ガンバロみゃーな。」といって手を握ります。遠い昔、憎んだ母親を気持ち良く過ごさせようと思います。人間ですもの!

    更新日:2013年3月22日コメントする(0)

  • 父の創業の苦労(1950年6月27日|0歳)

    後藤家の先祖は大垣城主の重鎮であったが戦で足を患い、丹羽郡高雄村の木津(現・犬山市木津)を開墾し、村を開いたといわれている。そんな話を吸江寺の老僧が話された事がある。相続関係書類からは久右エ門の以前はわからない。久右エ門から天保元年生まれの友八は嘉永元年に相続し長男・徳次郎と次男・太吉と3男・千三郎と4男・右吉の男の子供がいた。
    長男の徳次郎は家督をしばらく継いだが、子供が出来ない事で分家された。千市の父である千三郎は所帯を持った事により分家先に移籍し徳次郎と同居した。明治43年5月27日に私の父である千市は生まれた。
    父・千市の話では千三郎は酒好きで、材木の荷車引きの仕事としていた。明治時代の家長制度からの慣わしであり、大地主の家に生まれた徳次郎・跡目相続した太吉・千三郎は仲のいい4人兄弟であったと思える。私の父の千市は、尋常小学校を卒業後、すぐに、名古屋の豆菓子屋に丁稚に入り、手に職を付ける事を考え、古知野の引菓子専門店の老舗である高田屋菓子店に見習いで入店し努力を重ねた。後藤家は頭のいい家系といわれていたと自慢したことがある。奉公先の子供の学習係をしていたと自慢した事があった。父は勤め先で婚礼、仏事用の菓子細工と落雁技法と駄饅頭を覚えた。 昭和2年に千市は、若干、22才で独立心に燃え、設備投資のかからない八百屋卸の饅頭製造所を開業する。まだ店舗は持てず、犬山の新坂町に住んでいた親元に戻り、両親と妹のよし子に手伝わせ、扶桑や犬山の近隣の八百屋に饅頭を卸し始めた。
    多少の資金が出来た父は木津で生まれ育った条件を考え、多くの親類のある木津や材木町や山那などの顧客の営業立地を犬山市四日市の井掘の角地にはじめて「若松屋」の店舗兼作業所を構えた。
    昭和13年2月26日、結婚式の注文菓子が少ない時期を選び結婚した。母は春日井郡坂下村の農家の生まれであり18歳で父と結婚した。母は尋常小学校を卒業しているが、自分の弟を背負い学校へ通ったため、泣き出すと廊下へ出て子守をしたと話した事がある。
    父と母の結婚を期に千三郎夫婦は弟の友重夫婦の住んでいる自分の家に戻り、親子双方の新しい生活が始まった。
    引菓子の顧客も木津や坂下や扶桑町の山那や小渕地区のお客様も段々と増えていった。しかし、その土地を購入して欲しいと大家から言われ、三角地である事の理由で、新たな空き店舗を探すこととなる。犬山城下町の南玄関口であり以前からの菓子店舗の空き屋を探し当てて、現在の出来町で営業をはじめる事となった。
    父の2回目の営業立地は木津から井掘経由で出来町に通じる道筋で犬山城と犬山口駅の主要道路線上の地に商売の居を構えた。それ以後、若松屋はその地を拠点に営業を営む事となる。その場所は犬山城下町の南に位置し、多くの和菓子屋の乱立する場所でもあった。練物細工で業を起こした父は戦前までの冠婚葬祭のブームに乗り、技術も伴って、「他店より安く売る店」に徹した。代々続く老舗からは嫌がられる存在であった。
    若い父は、木津、羽根、小渕、橋爪、五郎丸の農家でおこなわれる冠婚葬祭のっ注文菓子屋として努力を重ねた。以後、私と父の年齢差が40才ある事とあわせ犬山地区で最後まで残る引菓子専門店になった。しかし廃ろうとしている引き菓子屋である「若松屋」にとって苦しい時代が非常に長く続く前兆でもあった。今になって、それを乗り越え、犬山の歴史を語ることができる財産になるとは誰も知るよしもなかった。
    相続書類を調べると父は38歳の時、先祖代々の後藤家の家督を継いだ太吉夫婦に子供がなく、父が血縁という事で昭和23年、太吉75才、千市36才の時の養子縁組を結んだ。後藤家は14代か15代続く家系であった。
    父は、家業があり同居しない事を条件に家督を継ぐことだけで承諾したと思う。すでに父は出来町の現在地で昭和12年より営業を開始しており、商いも繁盛していて同24年に現在地を購入した。
    父には年齢的にも40才前後であり、商いも上り坂であり、自立してきた自信があり、養子縁組を結んだ事で、1年たち2年たつ間に、農業と和菓子製造業との商売の両立が難しいと思う様になっていたと思える。
    また、太吉は大正時代に町会議員を務める厳格な人であった事から、厳しい人でもあった。父が本屋を訪れた際、「今すぐ、畑に肥(人糞)をまいてくれ」といわれ「服を着替えてから」と話したことで口論となった。
    衛生管理の必要な和菓子職人が大地主の農業の兼業は、大きな無理があり3年余り経った昭和26年12月、養子縁組を除籍している。太吉が亡くなる3年前の出来事である。父の除籍後、太吉は長野県人の東洋紡積に勤めていた光義氏が養子に入り現在に至っている。後藤光義氏は長年犬山市議会議員を務めた人格者である。町会議員であった太吉には本当によい後継者が出来た事が幸せであったに違いない。
    父の決断は大きな決断であり、人の財産は財産、職人は自らの腕で暖簾を築き、お客様に愛される仕事が出来てお恵みを頂く。毎々、ただ職人として働く。その苦労の連続を初代、二代目、三代目と置き換えながら、「若松屋」は今日まで犬山の地に溶け込み、少しずつ成長させて頂けた。感謝である。
    祖父の影響で父は酒を飲むことを嫌ったのか、体が受付けなかったのか、酒は苦手であった。酒が飲めない父は、真面目であまり社交的でなかった。初代の菓子職人として立ち上げた店は、時代の急変もあり、意外にも早く病気になり終生を迎えたけれど、穏やかな笑顔で真面目に菓子作りに打ち込んだ人である。
    また、兄弟思いの優しい心の持ち主であった。父の弟の勇は旧制小牧高校を卒業後、一時、稲沢銀行に勤めたが、中央大学の特待生になり、努力の末、裁判官という業を極め、大阪高等裁判所長を歴任し、勲二等を受賞された人である。叔父は日本の代表する裁判例の靖国法案と大阪タクシー会社の独禁法の判決をくだした人である。
    父は国鉄に就職したかったが、色盲であることがわかり、仕方なく夢をあきらめ、菓子屋になったと私に話した事がある。色付け作業も赤と青と間違う事があり、子供の私に色を確かめさせて仕事をしていた。
    父にとって、今、思うに一番難しい職業を選択した事となる。和菓子作りは色調がすべてといわれる世界である。例え引菓子でも、落雁でも味や造型がよくても、色彩感覚がなければ一流にはなれない。
    和菓子づくりはそれ程に色出しに厳しい世界なのである。父には色合いで多くの苦情も舞い込んで来たであろう。やる気を無くした事もあろう。菓子屋を辞めたくなった事もあったであろう。そんな難しい仕事を投げ出さず、最大の苦労をしながら終生を全うした父につくづく頭が下がる今日この頃である。

    更新日:2013年3月13日コメントする(1)

  • 職人よりもサラリーマンの時代に(1962年3月1日|12歳)

    昭和三十三年に姉・境子は結婚した。私とは十二才違いの姉弟である。姉は私の幼稚園の時である。市内に住む名鉄職員の人が相手であった。姉の記憶は余りなく、むしろ、もう一人の姉である五才年上の文江とよく遊んだ。両親は私を晩年の男の子供ということで大切に育てた。特に父親は幼稚園児の私に漢字や算数を仕事の暇な時間見つけて教え込んだ。そのかいがあって、小学校の低学年から四年生まで、犬山市立南小学校の百三十五名余りの中で成績上位の児童に優良賞を与える時代であった。私はその中に四年生まで選ばれてきた事が母の自慢の種でもあった。学歴重視のサラリーマン家庭や裕福な商売の同級生は私立中学に進学する傾向になった時代でもある。

    母は父親の弟が裁判官という事で『菓子屋よりもっと偉い人になって欲しい』が口癖であった。私の学校の成績順位には母は非常に敏感であった。私立中学を目指す同級生たちは四、五年生からすでに、家庭教師や塾へ通い、勉強の方法が違っていた。父の考え方は母と違い学力重視ではなく、道徳感や節度に厳しい厳格者であった。母は私の下がる成績に肩を落とした。自分だけで努力をしても、成績が落ちると言う事は大変に辛いことである。母親はよけいに口やかましくなった事は言うまでも無い。

    昭和三十年代の父親と母親の仕事は、商売が忙しいといっても慶仏用の菓子の引き物と少しの駄菓子を扱う商いで、細々と生計を立てていたくらいである。近くの菓子屋は犬山名物もあり、多くの饅頭を売りながら駄菓子も豊富で、引菓子も旅館に卸す外商もあり、菓子全般にわたり犬山で一番の繁盛店であった。見習いの人や大勢の人を雇用している店で大変に活気があった。

    私は子供ながらその店を眺め、自分の店が惨めに見えて、小学校へ通う事すら子供心に苦痛であった。その頃は、私は家が菓子屋である事を友人に知られたくなかった。両親も自分達で立ち上げた商いを、継がせる気持ちもなかったと思える。

    又、今思うと継いでも十分に食えるような将来性のある菓子屋ではなかった。母としては、もっと勉強に精を出して、菓子屋を継がんでも、立派な職業につけるような人間にさせたかったに違いない。


    岩戸景気(昭和三十三年六月から昭和三十六年十二月 成長率十、六%)四十二ヶ月間

    更新日:2013年5月2日コメントする(0)