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チャレンジキングさんが最近登録した自分史(経年順)

  • ウィーンへの出向開始(第2章)(2001年4月17日|44歳)

    1月上旬、内示をもらって3か月。4月17日いよいよオーストリアに向けて出発だ。その日は、偶然にも、同じウィーンに駐在する後輩と同じフライトでの出向となった。もちろんそれは、不安を和らげ、非常に心強いスタートであった。翌日から早速業務開始。というか、最初に行ったのは銀行口座の開設とクレジットカードの申請だ。住まいはウィークリーアパート。25m2程度の1ルームだ。そこに2週間ほどいて、会社から車で10分程度南に行った所に部屋を借りた。2LDKといった広さで、まだ、そこに長く住むのかいづれ家族が来てくれるのかさっぱりわからなかったので、長く住める部屋を借りた。その周辺では中の上といった物件だったように記憶している。
    毎年、4月は業界の見本市が行われるシーズンで、前任者との引継ぎがちょうど行いやすいタイミングであったのは事実。わずか1週間の間に、ザルツブルグ、ブダペスト、チェコ・ブルノ、と仕事的に関係した事務所と社員にあいさつした。
    一番驚いたのはハンガリー人。ハンガリー人と話したのはほとんど初めてだったが、社員同士がいがみ合っている。社員同士仲良くしてほしいのに仲が悪い。初対面の自分に対する態度がこんなとは、!!と本当に驚いた。結局、それは本当に仲が悪いために最初からあいのままを自分に見せていた、というか、自分の正当性をアピールしていた、ということだ。

    更新日:2013年2月16日コメントする(0)

  • 初めてのスロバキア入国トライ(2001年5月10日|44歳)

    ウィーン駐在から、3週間、担当のセールスマンに連れられてスロバキアに向かった。首都ブラチスラバから3~4km手前の国境で足止めを食った。ドライバーのオーストリア人は国境でビザが取得出来ると言っていたが、どうやら無理のようだ。しかたがない、では、ハンガリーに一旦抜けて、ハンガリーからスロバキアを目指そうとお!。言われるままにハンガリーに出て、7~8km離れた国境に行って、同じようにビザ発行を頼んだが結局駄目だった。まだ、シェンゲン条約というビザなし渡航が一般的でない時代の国境越えがいかに大変だったか経験できただけでも良しとしたい。
    その足で、ウィーンにあるスロバキア大使館に出向いて、1年間有効のビザを発行してもらった。日本円で1万円弱だったと思う。翌週末、今度は1人で、ビザを張ったパスポートを所持して出掛けた。今度は問題なく国境を通過出来た。じろじろ眺められたが、これは、乗っていた車がBMWだったからだと思う。こんな人間がこんな高級車に乗れるのか???といった見方をされていたのかも。もちろん、その車は社有車で、自分のポケットマネーでは到底変えない代物だ。
    実は、帰路の国境でトラブった。まさか、車検証を出せ、と言われるとは想定しておらず、自宅に忘れていた。オーストリアの社員から、車の中に大事なものは置いてはいけない、というアドバイスをもらって、いつも、車を降りる時には保険証券なども持って降りているが、たまたま休日で背広姿でなく、うっかり忘れて来たのだ。結局、検問所で待つ事15分、パスポート・免許証から盗難車に乗っていないという事が分かってもらえて、ようやく釈放された次第。

    更新日:2013年2月13日コメントする(0)

  • チェコでパーティー(2001年6月11日|44歳)

    5月にスロバキア入国に成功したことが思い出となって入りが、6月の思い出はチェコのレストランでのディナーパーティーだ。5月に本社から連絡があり、6月にポーランドに重役が出向く予定があり、その途中でチェコに寄るから社員にも夕食会に参加する様伝えろ、という内容だ。最初は、20人近くの社員の半分くらいの社員しか参加を申し出ていなかった。理由は正式にはわからないが、私が考えるに、彼らは日本の本社から重役がやって来て一緒に夕食というのは6年前の会社設立以来初めてのイベントで、これは何か重大なネガティブなイベントだ、と考えたのではないか、と思う。最終的にはほとんどの社員が参加して非常に楽しい夕食パーティーとなった。
    本社の重役が駐在3か月目にやって来たのは、果たして私が現地法人の責任者として上手くやって行けるのかこの目で確かめたい、という気持ちを持たれていたからだ、と思っている。
    チェコは何と言ってもビール王国だ。6年半の駐在で何度もチェコビールを飲んだが、ヨーロッパではラガービールをピルスナーと呼ぶが、これの発祥はピルゼンというチェコの都市名だ。乾杯をチェコ語で、ナスドラビー!バドワイザービールも発祥はチェコ・チェスキ・ブドワイスという地名からだ。

    更新日:2013年2月13日コメントする(0)

  • 家族の元へ一時帰国前後(2001年7月25日|44歳)

    単身赴任後、3か月。何とか無事に生活を送っていたが、夏季休暇を取って日本に帰る事にした。3か月を思い出しても、ほとんど1度か2度しか自宅に電話していなかった。週に1度くらいのメールを出していただけだ。これまでの単身生活は、1994年9月にベルギーに初めて赴任した時以来だ。その時も3か月一人だったが、3か月後には家族が来てくれるとわかっていたから一人時代も楽しめたが、この時は、何年間も単身生活になるかもしれない、という状況だったので、日本への一時帰国が本当に楽しみとなっていた。
    5月に初めて一人で入国したスロバキアには、7月には、ドライブで出掛けた。何も特別な予定もなく、純粋にドライブでニトラというスロバキアで3~4番目に大きな町を訪ねた。今も覚えているのは、物価安だ。ビール一杯20円弱、当時は飲酒運転が全く問題にならなかった時代だったので、ポテトやウィンナーを肴に2~3杯飲んでウィーンに戻った。当時はナビもない時代であり、途中で道を聞いたが、町はずれのおばさんが案外英語が通じたり、しゃれたルックスだったりといういい印象がスロバキアにはある。
    家族に会える直前はルンルン気分で仕事にプライベートに日々エンジョイしていたのは確かである。
    しかし、実際に一時帰国してからどういう活動をしたのか全く記憶にないのは誠に残念。

    更新日:2013年2月14日コメントする(0)

  • 夫婦円満のヒントなど(2001年8月25日|44歳)

    1週間の日本滞在を終えて、仕事に復帰。8月下旬、日本から某部長さんが視察に訪れられるという連絡が入り、その準備に忙殺された。実際にこられてから、公私ともども色々お話しさせて頂いたが、今でも記憶に残っているのは、20数年経過した夫婦で1週間以上の旅行に出掛けた時の役割分担だ。その時伺ったのは、洗濯を誰がやるか、といったことも意外に問題になるんだよ、と。奥さんからすれば、せっかく羽を伸ばしに来ているんだから、自由に過ごしたいだろうし、旦那さんからすれば、日常の延長で奥さんに頼みたい気持ちがある、と。その時には全く自分自身の将来のテーマなんて思ってもみなかったが、そろそろ次に長い旅行に出掛ける時にはテーマになるな、と今更ながら思い出した次第。
    あれから12年、我が家では、日常の家事、特に炊事は私の役割になっている。1週間のうち、5回は最低保障というか家族のために夕飯の準備をしている。ほめられるより、味が薄いとか、砂糖が足りないとかアドバイスをもらってばっかりだが、今後のためと思って次に生かす努力をしている。

    更新日:2013年2月14日コメントする(0)

  • 海外での慰安旅行(2001年9月22日|44歳)

    まさか、海外で慰安旅行を体験するとは思ってもいなかったが、海外赴任後半年経過した9月下旬、なりゆきで職場での慰安旅行を実施することとなった。ほとんどの社員は初体験でもあり、ほぼ全員参加となった。しかも、この1泊2日の旅行をきっかけにカップルが誕生し、翌年には2人が結婚するという快挙にもつながるイベントとなった。そういう意味では実施して本当に良かった、と今更ながら思う次第である。

    更新日:2013年2月14日コメントする(0)

  • イギリスに勉強旅行(2001年11月15日|44歳)

    海外での販売会社の責任者として業務責任を果たすとは、つまりは売上を伸ばすことである。10月までの半年間は何とか、対前年比で、アップの月が4回と、何とかプラスが多かったが、11月になり、前年の売上が特殊要因で極めて多く、とても前年並みの売り上げは達成出来ないことは最初から分かっていたが、それでも出来るだけ去年の実績に近づけるのが責任者の役割だ。それにしても、高いハードルだ。人によっては、マイナス20%以上下げるのはまずい!、と忠告してくれる他国を担当する責任者もいた。
    そこで、欧州で一番業績を上げているイギリスの責任者に相談した。すると、見に来たらどうだ、とお誘いの言葉を頂き、早速、オーストリア人・チェコ人・ハンガリー人を連れて出掛けた。1泊2日の強行軍だったが、実り多き出張となった。

    やはり、業績を上げるには定石というものが存在する、とその時初めて痛感した。数か月前、欧州の重役の方がオーストリアに来られた時に、売り上げは毎月少しづつ上げれば良い、そういう仕組みを作ることが大事だ、といった話を聞いていたが、この月は本当に売り上げについていろいろ考えさせられる月となった。

    更新日:2013年2月16日コメントする(0)

  • スロバキア人マネージャー採用(2001年12月10日|44歳)

    この年の12月は、それ以降の6年間の欧州滞在を左右するほどの人物との出会いの月となった。その年倒産したフランスの家電メーカームリネックスのスロバキア社長(といっても部下は数名だったようだが)をしていた人物が、私の採用募集に応募してくれた。コーヒーメーカーや髭剃りを始め家庭用製品の販売をゼロから展開して業績を上げたことを説明してくれた。当社の業界とは全く無縁だったが、ビジネスの展開方法が非常に実践的で、これから当社のビジネス展開で大いに役立つような経験を踏んでいる人物だと実感した。翌日には、採用を決定した。さすがに、ムリネックスで商売を広げた実績への自信があるせいか、自分の待遇については譲らなかった。こちらとしては、まだ、全く実績がわからないので抑え気味の条件提示をしたが、自分を高く売って来た。しかし、彼の話は非常に具体的で、彼と一緒ならスロバキアのビジネスを上手く成功させることが出来るT、と妙に安心し、彼と契約した。仕事は翌年2002年からとしたが、すでに年末までに2002年の活動計画を作って提出してくれた。

    更新日:2013年2月16日コメントする(0)

  • 現地人に食事の招待を受ける(2002年1月11日|45歳)

    年が変わって、2002年。既に、3月には家族がウィーンに遊びに来るという事が決まっていたので、年明けからウキウキした日々がスタートした。
    1月半ば、ハンガリーで会議を計画していたら、現地人から夕食の招待が掛かった。夫婦とその息子と私の4人での食事だった。どこにでもあるローカルレストランだったが、ちょっと上品な店だった、と記憶している。アーガシュヘーゲドライ、とちょっと長いことばだが、これが記憶にあるハンガリー語の乾杯だ。
    ハンガリーはビールよりもワインが有名だ。日本でも売られているトカイワインが特に有名だ。トカイ地方はハンガリー北東部とスロバキア南東部の両国にまたがっている地域であるが、日本ではハンガリートカイワインが有名だ。
    ビールは、オーストリアから輸入したものが多く出回っていた。

    その夫婦の長男は我が家の長男と同い年であったが、日本人に対しても遠慮せずに話しかけて来るし、自分の息子と比べたら大人びて感じたものだ。その息子さんとは日本に帰る直前にもあったことがあるが、その時には既に彼女も作っていた。

    まあ、今から思えば、非常に懐かしいひと時だった。

    更新日:2013年2月17日コメントする(0)

  • 退社した社員が再度働きたい、と。(2002年3月16日|45歳)

    ある日の夕方、社内が何となく騒がしいので階下のロビーに行って見ると、なんと昨年6月に会社を辞めた、女性が来ていたのです。聞いてみると、Siemensに今勤務しているが、雇ってくれるのなら、直ぐ今の会社をやめてもいいと言う。
    当時は、私は来たばかりで、直接お願いを言える状態でなかったので上司と旨くいかず辞めたけど、今でも当社の仲間といつもこうして会っているという。今の会社より多少給料が下がっても来てもいいとまで言ってくれました。「何で今日はうちに来たの」、と聞いたら 月に1度は当社の仲間と会ってるよ!との事で、全く偶然、私と顔を合わせたとの事でした。

    最終的には、翌日の15日の金曜日にその部署の主任と話して再雇用する話を決めましたが、本当に偶然とは言え、びっくりです。解雇を決めた時は、次が決まるまでのブランクをどうするか、また、面接ではどういう人物か見定めが困難であり、一昨日の解雇決断後、不安が一杯でした。このような展開が当日の夕方待っているとはとても想像出来なかったので、本当にびっくりと言うか、不思議な文化を経験した気がする。

    更新日:2013年2月23日コメントする(0)

  • 家族が遊びにやって来た(2002年3月28日|45歳)

    待ち遠しかった家族のウィーン来訪だ。1週間の予定でやって来た。全く私費での訪問だ。費用的には50万円近く掛かったが、この経験で夏には家族で赴任することとなった。今から思えば、1年前にウィーン駐在の話があった時、自分がどのくらい長く滞在できるのか全く予想がつかずに、単身赴任を決めたというか、単身赴任にせざるをえなかった状況だ。2~3年で日本に帰らされるという不安感が相当に強かったように思う。しかし、1年が経過し、何とか4~5年は滞在が出来そうだという自信も付き、家族をまずは見学的に呼ぶことにした。この1週間のウィーン滞在で、家族、特に長男はウィーンを気に入ったみたいだ。今以上に、当時ウィーン日本人学校の先生方が教育に熱心で、素晴らしい先生もおられた。偶然、春休みに日本人学校を訪れた際、そこにおられた英語の先生の熱心な学校紹介に長男はいたく感動したようだった。
    1. 焼肉セナラ(ウィーン1区)
    2. 3月26日(火)の訪問場所
    シェーンブルン城(ウィーン12区)
    3.3月27日(水)の訪問場所
    バーデンのプール(バーデン市、お父さんのアパートから20分の所)
    4.3月28日(木)の訪問場所
    中華(ウィーン23区、お父さんがいつも昼食を取る所)
    ショッピングセンター(ウィーン郊外、お父さんのアパートから1駅)
    5.3月29日(金)の訪問場所
    地下鉄でSiebenhirtenからWestbahnhofへ移動
    Westbahnhof(西駅)からブダペスト南駅へ移動
    南駅から地下鉄・タクシーでホテル(Hotel Lido)へ
    夕食後、トレーニングジム
    6.3月30日(土)の訪問場所
    ブダペスト遊園地
    ブダペスト動物園
    ピザハットで昼食
    ブダペスト王宮(今はハンガリーに王様はいないので誰も住んでいない)
    7.3月31日(日)の訪問場所
    朝食後、トレーニングジム
    バスと地下鉄で南駅へ移動
    ブダペスト南駅からWestbahnhof(ウィーン西駅)へ移動
    ハイザキサンのお店で夕食

    その訪問を終えて、ウィーン駐在を決めた。早速会社に申請して、夏休み中に家族の赴任が決まった。

    更新日:2013年2月23日コメントする(0)

  • 20周年記念イベント(2002年4月6日|45歳)
    チャレンジキング

    家族が1週間滞在して日本に帰ったと思ったら、今度は盛大なイベントだ。ウィーン現法20周年記念イベントだ。本社からも重役が来賓で参加され、オーストリア国内金物店やホームセンターの売り子さんなど120人以上が参加して、新製品紹介とディナーやアトラクションを兼ねたイベントだった。
    アトラクションではダンスなどお客さんも喜んで参加していたが、私自身も坂本九の上を向いて歩こうを日本語で歌って一緒に楽しんだ。欧米ではスキヤキソングとして知っている人は知っている。
    日本の高級ホテルでこれだけの規模で実施すれば、1人2万で計算しても、250万円以上は掛かると思うが、1泊2日ではあったものの100万円強で収まった。翌日はオーストリア国内で初めてゴルフを行った。

    イベント会場は、ウィーンから約200km(リンツから南へ50km)の風光明媚なロケーションだった。

    更新日:2013年2月24日コメントする(0)

  • 現地法人人事(2002年6月15日|45歳)

    ウィーンに駐在して1年近く経った頃から人の問題で頭を悩ます機会が増えた。現地人に限らず、日本人駐在員人事についても悩む機会が増えた。自分も日々手探りで業務を行っていたが、6月になると、突然、自分の部下で仕事をやってくれていた日本人が退社を申し出た。これには非常に驚いたが、その意志は固く、本社にも受理された。早速本社は後任探しに奔走して頂き、後任赴任者は家族が到着して間もなく、着任の運びとなった。

    ウィーンで会社を辞めた人物には後日談があり、一旦日本に帰ったものの、再びウィーンに来て、友人とカラオケ店を経営し始めた。数回利用してあげたことがあるが、欧州にはカラオケ文化がないので、利用する人は限られ、日本人とその友人・知人が主たるお客さんのようだった。私も知人の送別会などで利用させてもらったが、従業員を雇う余裕がないので、缶ビールをそのまま販売する状態で少しサービスレベルのデリカシーに欠けていたかもしれない。でも、その企業家精神には感心した。

    更新日:2013年2月23日コメントする(0)

  • やっと、家族がウィーンに到着(2002年8月|45歳)

    1年半近くの単身赴任生活を経て、やっと待ちに待った家族のウィーン到着。到着時刻は、現地時間午後4時。子供は中学2年生の長男、小学6年生の長女、4年生の次女の3人。最初が肝心と思って、夕食は毎週最低1回は利用している日本食レストランにて。
    今まで一人で食べに来ていた時は新聞を読みながらの夕食だったので、食事が遅く出てもビールさえ飲めれば、特に気にしていなかったが、この日は、娘たちの頼んだオーダーが出て来るのが異常に遅く、1時間近くも待たせることになってしまい、とうとう次女はおなかが空き過ぎて泣き出してしまった。それ以来、家族でその日本食レストランに行かなくなったが、半年経ったら、そのお店はつぶれてしまった。もしかしたら、私が個人で毎週通っていた時はそれなりに貢献していたのかもしれない。

    更新日:2013年2月21日コメントする(0)

  • ウィーン水族館(2002年8月28日|45歳)

    私が家族と住み始めたことを知った社員が、気を使ってくれ、ウィーンの水族館に招待してくれた。日本の水族館はたいてい県や市が運営していることが多いと思うが、ここの施設は個人所有とのことだった。欧州は夏時間制を取り入れているので、8月下旬でも、日の入りは7時頃まで明るいので、夏の活動時間は日本に比べてはるかに長い。この日は家族も珍しい魚に接して楽しいひと時を過ごすことが出来たようだ。

    更新日:2013年2月22日コメントする(0)

  • スロバキアの真ん中へ視察(2002年11月6日|45歳)

    この日、日系企業の矢崎総業さんを訪問した。以下はその時の印象を日本に報告した時の主なメモ。要は、当時、わが社が欧州大陸のどこの国に工場を作るか検討段階にあり、その調査の一環でスロバキアに進出している企業を訪問した時のメモだ。

    まず、ロケーションですが、ブラチスラバから180Kmというのはやはり遠い。日本人駐在員も現在の社長さんは6年と長そうでしたがその他は1年少々の人が多かったように、腰を据えて取り組むにはややド田舎過ぎる印象があります。初任給25,000円は最低賃金を1万円近く上回っている訳ですが、ブラチスラバ近郊でそれに近い水準で探せる可能性あれば、工場駐在員もウィーン南部に住んで通える可能性も十分ありますので、長い目で見ればその方が得策かなと思われます。特に、2004年予定のEU加盟とも関連してウィーン・ブラチスラバ間の高速道路開通工事が目下行われており、それが開通すればブラチスラバから数10キロ東であっても1時間で工場に到着出来ると思います。3000人規模の工場をわずか6人の日本人で切り盛りされている事例を見て、一方で矢崎本社のグローバル体制の素晴らしさと同時にスロバキア人の労働の質のレベルの高さを感じました。今後も需要が伸びる東欧の地理的な中心であるスロバキアを工場移転の一つの候補地として検討を開始する価値は十分にあるように思います。

    しかし、結果的には、ルーマニアに工場が建設され、今この自分史を書いている2013年では中国工場に次ぐ2番目の工場としてルーマニア工場は成長している。

    更新日:2013年2月24日コメントする(0)

  • パナソニック工場の見学(2003年2月12日|46歳)

    昨年11月の矢崎総業さんの工場に続いてパナソニックさんの工場も見学できたが、こちらも日本に送ったメモが残っていたので、以下に記しておきたい。

    2003年2月12日、スロバキア販売店訪問中、店主と工場誘致の話になり、急遽、パナソニックの工場を見学出来た。

    1. 社名:松下オーディオビデオ(スロバキア)Ltd.
    2. 従業員: 約970人(日本人7人)
    3. 設立: 2000年6月。稼動は2000年10月。
    4. 生産品目:DVDプレーヤー(輸出が99%)
    5. ロケーション:東部の中心都市コシュツェから西に50km。車の便は非常に悪く、出荷は敷地内にある国鉄駅から貨車で出荷。同じく敷地内に税関事務所の併設。尚、ブラチスラバまで、乗用車で約5時間。日本人駐在員は全員ホテル住まいで、日本食は約4時間掛けて、ブダペストに食べに行くとか。
    6. 設立経緯:約20年ビデオ工場をドイツにて稼動していたが、コスト的に採算が取れなくなり98年頃から物件探しをスタート。ポーランド南部からスロバキア、ハンガリー北部を軸に探していたが、人件費としてスロバキアが最も有利と判断し、スロバキアに的を絞っていた所、現在の土地及び建物所有社(現地電気会社、中部電力のような所)から譲渡の話があり、国家の各種優遇策(優遇税制や職業訓練費用補助など)を総合的に判断して進出を決定したとの事。オープンの時にはその時の大統領も視察に来られたとの事。設備機械も多くはドイツ工場からの設備をそのまま使用。尚、ドイツ工場閉鎖発表時には、従業員のストライキが発生した模様。
    7. 経営状況:既に2002年から黒字となり、経営はまずまずとの事。但し、「進出は更に数年早めるべきだったと思う」との事。後10年はここで踏み止まりたいが、今後は更に東の国が有利にはなるであろう。」と感想を言われていました。尚、突然の訪問に立ち会って頂いたのはドイツからの移行に直接携わられた工場長さん。
    8. 給与水準:初任給8,000SKK(約Euro195)平均的にはEuro230~250の範囲ではないか(グロス)との事で、明言は避けられた。但し、販売店主は勤務している人からEuro270~280はもらっている話を聞いた事があると言ってました。失業率が25%前後の地域なので、採用には苦労はしていないとの事。女性約8割で、多くの人は公共交通機関(主にバス)で通勤。
    9. 敷地:土地はSKK100/1m2(約2.5ユーロ)らしいですが、これは販売店主が工場を出てから聞いた情報として教えてもらったもの。建物は外装はそのまま旧会社のものを使って、内装のみ全面改装したとの事。
    10.所感:11月の矢崎総業の方が日本的な経営が深く入り込んでいる印象。従業員が給与の為に働きに来ている印象が松下の方が強い。QCとかも旨く行っていないとの事。利益が順調に伸びているが自動車部品と比べると細かな改善にやや手温い印象。

    更新日:2013年2月24日コメントする(0)

  • 3家族でドイツ国境のホテルに(2003年3月30日|46歳)

    日本人学校の同級生は人数も少ないこともあり、子供同士が仲良くなり、3家族でで一泊の旅行に出掛けることになった。お1つのご家族では旦那さんが急な出張で奥さんとお子さん、我が家は5人、もうお人家族は家族4人と合計11人が3台の車に分乗して出掛けた。ホテルは私の担当でベストベステルン(best western)というドイツ国内の有名なホテルチェーンを利用した。4人で来られたご家族のお父さんは大学の教授だけあって、色々と博学でお話を聞いていて非常に為になったことを覚えている。
    残念ながら、ウィーン滞在が10か月との事で、5月にはウィーンを後にされた。

    更新日:2013年3月9日コメントする(0)

  • 大入袋(2003年5月1日|46歳)

    現地法人での記憶であるが、営業成績が良くて、過去の記録を抜いた売り上げを記録した時には、感謝金を支給したが、その始まりがこの年の5月上旬だったと記憶している。

    更新日:2013年3月9日コメントする(0)

  • ウィーンの病院にて手術(2003年5月11日|46歳)

    2003年の2月に日本の病院で人間ドッグで検査した所、腎臓にポリープがあるということで、要精密検査だったが、ウィーンに帰ってから結果を知ったこともあり、ウィーンの病院に出向くと、紹介状を書くので大きな病院で精密検査を受けてほしい、と。すると、担当医師が「開けてみないと良性か悪性かわからない」と怖いことをおっしゃった。ドナウ川病院というウィーンで2番目に大きな病院に入院して手術することになった。手術は月曜日。土曜日の夕方から入院して、日曜は検査。手術中は麻酔は掛かっていて、月曜日の夜、手術が終わって、家族と面会して無事終了したことに気付いた。火曜日はまだ麻酔が残っていたせいか痛みがそんなに伝わって来なかったが、水曜日は麻酔も切れて、おなかの痛みは尋常ではなかった。一晩中痛みで眠れなかった。確かに体に40cm近くメスが入ったのだから痛くて当たり前。でも、何とか、土曜日には丸1週間経過したこともあり退院した。

    更新日:2013年5月1日コメントする(0)

  • 不正への対処(2003年6月30日|46歳)

    海外の現地法人では、なかなか日本人の目が届きにくく、やり方次第では不正が行われるリスクがある。オーストリア・チェコ・ハンガリー・スロバキアの4か国の担当を行っていたが、ついのハンガリーで不正が発覚し、その不正を犯した社員を解雇する決意を固めた。こういう問題は現地の法律もしっかり見ておく必要があるが、弁護士にも相談して、懲戒解雇ではなく、和解した上での解雇にしていくことが、本人の裁判への訴えを回避する意味では望ましいという提案を受け、何か月分かの給与を支払って退社してもらうという方法を取った。
    確かに、十分手続きを踏んだこともあり、7月で退社は成立したが、ハンガリーでの中核メンバーの退社は、その後2人が続き、2005年になってやっと体制が落ち着いた。

    更新日:2013年3月9日コメントする(0)

  • ハンガリー現法7周年イベント(2003年7月5日|46歳)

    ブダペストを流れるドナウ川の上流約50kmの景色のよい高台にあるお城のようなホテルでパーティーを開催。家族も呼んで一緒に参加した。理由は日本文化の紹介で、生け花の紹介だった。食事のメニューではブダペストの韓国料理店に頼んで、焼肉も注文してハンガリーのお客さんに食べてもらった。カラオケもセットを用意して歌ってもらったが、これらすべての発想の基本は日本文化を少しでもハンガリー顧客に知ってもらいたいというアイデアだった。

    更新日:2013年3月9日コメントする(0)

  • 家族旅行(2か国)(2003年8月11日|46歳)

    この年の8月は旅行に大忙しだった。オーストリア国内に2泊3日、その後、1日置いて、ハンガリーバラトン湖に1泊2日で出掛けた。しかも、自分の車と家内の車の2台で。というのも、日本から家内の妹とその子供たち及び家内の母合計5人が遊びに来ていて、総勢10人での移動だったからだ。私はBMW車に乗っていたから、まだゆったり走れたが、家内はチェコ・シュコダ車でフォルクスバーゲンのポロに似た車で5人で長距離ドライブは相当窮屈だったようだ。オーストリアのザルツカンマーグートでは、景色を楽しみ、ホテルのテニスコートではテニスもやった。ハンガリーのバラトン湖ではもちろん水泳だ。大勢のハンガリー人と一緒に広い湖で泳ぎを堪能した。ザルツカンマーグートのホテルは前年会社の25周年イベントで利用したホテルだったので場所を覚えていて自分たちで探していけたが、ハンガリーのバラトン湖の方は、販売店の親戚が営業している貸別荘で、近くのドライブインで待ち合わせして、その貸別荘に到着することが出来た。1泊2日ではあったが、夕方のバーベキューも含めて十分エンジョイできた。

    更新日:2013年3月3日コメントする(0)

  • スロバキアに会社設立準備(2003年11月6日|46歳)

    ウィーン駐在開始後2年半、まさか、自分が個人で会社設立を行うとは思ってもいなかったが、スロバキアで会社を設立することになった。会社として正式に行うには準備期間が掛かるという事で、申請時点は個人レベルで行うこととした。約60万円の資本金で、自分で約45万円を出資することになった。この部分は正式には会社に報告せずに、稟議書の上程を行いつつ並行作業で設立を進めた。しかし、この事前の申請を行っていたお蔭で、翌年3月24日に正式に設立が当局から認可され、即座に営業活動を行うことが出来た。もし、事前申請を行っていなければ、半年以上認可が遅れた訳で、事前申請の意義は十分あったと考える。
    これは、スロバキア人セールスマネージャーも全く素人なので、専門家である弁護士を使って法的な処理は全部任せて行ってもらった。自分自身の無犯罪証明の提出など、日本に一時帰国した際、名古屋の警察署に出向いて証明書を発行してもらう手続きを取るなど必要書類の提出には結構時間が掛かった。
    ブラチスラバにある日本大使館の担当の方も親切に会社設立に関するアドバイスもいろいろと行ってもらえて有難かった。

    更新日:2013年3月3日コメントする(0)

  • 家族と子供のお友達家族でスキー(2003年12月24日|46歳)

    オーストリア現地法人の仕事はたいてい12月23日がその年の最終稼働日で、翌24日から冬休み。この年は、子供同士だけでなく親も親しくさせて頂いていたご家族とスキー場で合流した。24日朝出発して、夕方宿に着いたら、お友達のご家族は既にスキーを終えて、くつろいでおられる最中だった。翌日は一緒に昼間はスキーを滑ったが、その日の夕方そのお友達家族はウィーンに帰られ、2日目は我が家だけのスキーリゾート生活となった。

    更新日:2013年3月9日コメントする(0)

  • スロバキア大使館で新年会(2004年1月10日|47歳)

    国が小さいと、日本人社会も非常に狭い。2003年秋以降、スロバキアの首都であるブラチスラバにある日本大使館に出向く機会が増えたが、正式に会社設立が決まったこともあり、日本大使館主催の新年会に招待された。当時、まだ進出している企業数も少なく、新年会に参加された企業数も10社程度だったと記憶している。自然と参加されていた会社の人といろいろ話したが、ほとんどの人は単身赴任の人だった。ジリナという首都ブラチスラバから150km以上北にある都市に住んでいるあるトヨタ系の方は、毎週ウィーンにゴルフに来ているとの事だった。そのジリナという地域にほかに日本人が住んでいないので、わざわざ3時間以上かけて毎週来ているとの事だった。首都と言っても人口は60万程度で、中心部もこじんまりしていて、都会とは言えない待ちだったが、ブラチスラバは気さくな街という印象だ。しかし、2001年春に初めて訪れた時のそういした印象からすれば、2006年には高速道路も整備され、大きなショッピングモールも完成し、モダンな都会になった。

    更新日:2013年3月3日コメントする(0)

  • スロバキアの会社が認可された(2004年3月|47歳)

    半年前から準備して来た新会社がいよいよオープンする運びとなった。順番からすればちょっと逆になってしまったが、10月にスロバキア当局に申請手続きを行ってから本社の稟議が下りるという順番になってしまったが、3月に認可されるという前提で本社の承認をもらった。
    当初の事務所はわずか3人の現地社員でスタート。事務所長、物流担当者、修理担当者の3人である。その上にセールマネージャーが存在したが、自宅と事務所が200km近く離れており、かれも月に1~2回しか立ち寄らないので、実質3人の事務所で、しかも事務所長に権限は与えていないつもりであったが、後になって彼に思わぬ不覚を取る羽目になってしまうのであった。

    更新日:2013年4月28日コメントする(0)

  • ウィーンで結婚式(2004年5月6日|47歳)

    初の日本人同士の結婚式に招かれた。場所はウィーンでも有名なホテルの1室。2人の家族はわざわざ日本から来られていた。男性はウィーンの自分の勤務する会社の社員。まあ、上司として招かれた、という訳だ。旦那さんも純日本風な性格だが、お嫁さんも非常に日本的な人だった。

    更新日:2013年5月1日コメントする(0)

  • 日本人学校大運動会(2004年5月21日|47歳)

    2001年にウィーンに駐在を始めて4回目の運動会。初回は家族がまだ赴任していなかったので、パス。2年目も同様。3年目は、5月に自分のポリープ手術で見学。そして今回は万全の態勢で臨んだが、雨にたたられた。そして、翌年は、確かに体調も良く元気に参加したが、リレーでころんで医者に行くほどの打身となった。どうも、日本人学校の運動会には縁がなかったようだ。

    更新日:2013年5月1日コメントする(0)

  • 5日で2000km(2004年6月15日|47歳)

    当時のメモを読み返すとこの時期、わずかに5日間で2,000km移動している。6月11日、早朝ウィーンの自宅を出発してチェコ・チェスキークルムロフのホテルのパティー会場を下見し、その足でチェコのお客さんたちとスポーツ(テニスやゴルフ)をエンジョイし、翌日にはインスブルックに移動し、ウィーン顧客回りを行って、15日にはウィーンの自宅に戻るというものだ。まだ、40代後半で若さもあったし、そんなに疲れたとは自分も思っていなかったようだ。
    チェスキークルムロフには5月初めに家内とドライブで行っているし、やはり世界遺産都市とあって、何度行っても飽きない都市と言えそうだ。

    更新日:2013年5月2日コメントする(0)