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イトトンボさんが最近登録した自分史(経年順)

  • ③ 自分史 「清らかに生きたい」(1959年4月1日|20歳)
    イトトンボ

    1 新たな人生への旅立ち ・ 都庁に合格 1959年(昭和34年 20才) ・ 就職試験 なべ底景気といわれる昭和34年、労働界はストライキで揺れている年であった。私の就職も安田信託銀行、塩海臨業、国鉄など、ことごとく失敗した。 面接の時、「ストライキをどう思いますか」と聞く試験官に「労働者の当然の権利です」と答える私に、採用してくれるところはなかった。途方に暮れた。全国の大手の会社に手紙を書き、採用試験の機会を求めた。しかし、学校を通じての採用しか受け付けないとのこと。我が岡山操山高は、95パーセントの大学進学校であった。会社の求人は、無いに等しい。最後に残されたのは、公務員試験のみ。学校の成績が悪い自分にとって、実力で勝負できるのは、これしか道はなかった。数ヶ月の間、基本問題を夢中になって解いた。担任の先生は、「無駄だから止めておけ」と言った。落ちたら、北海道の牧童でもやろうと思っていた。英語が苦手であった。はたして、英語のある岡山市、岡山県、大阪府は不合格であった。英語のない奈良市が合格した。しかし、奈良市の面接のとき、東京も試験の日だった。人生を決める、重大な分かれ道であった。夜間大学への希望があった私は、奈良を犠牲にしても東京を受けた。東京都は350人採用予定のところへ、12,000人が受験した。危険を冒しても大学へ行きたいという情熱が、見事100番目に合格させた。父母を始め、家族全員が喜んでくれた。特に、母は飛び上がって喜んでくれた。この喜びの前には、私のどん底時代があった。
    ・ 生い立ち 私の先祖は、岡山県上道郡浮田村沼の片田舎である。家の前にある沼城の城主であって、のちに岡山城を築いた、宇喜多直家の家臣であった。沼城は 亀山城とも言われ、毛利を攻めている豊臣秀吉を、直家が自分の妻「お福」をもって接待した城である。今も城跡の一部は我が家の所有となっている。 東軍の副大将、宇喜多秀家にしたがって関ヶ原戦に参加したが、秀家が八丈島に流されてからは、主を失ったので、村の土豪となった。そして江戸の終わりまで、沼の名主を務めた。戦後の農地改革で多くの田畑を失い、旧家は浮田村の役場として使われた。隣の蔵には、名主当時の資料が多く残っており、その蔵を調べた東京の伯父二郎は、駒澤大学、帝京大学の教授となった。 父は三男であったので、大陸を目指して朝鮮の警察に勤めた。若くして、警部補まで昇進した。その間、母を迎え私が生まれた。母は岡山の邑久郡の生まれで、両親を早くから亡くした寂しい人だった。邑久女学校を卒業してまもなく、父のもとに嫁した。夢二の描く美人画のように美しかったので、早くから結婚話があった。が、ハンサムな父の写真にひかれて嫁したらしい。内地で、父不在のまま式を挙げた。妹も弟も、朝鮮で生まれた。朝鮮の子供と、遊ぶ機会はなかった。 朝鮮人のオジサンにいたずらし、母が、きつく叱られていた。 寒い冬は軒先にツララが下がり、暖かいオンドルで過ごしたことが思い出される。朝鮮人の娘が、お手伝いに来てくれていた。サイドカーの出迎えで、父は出勤していた。オッチョコチョイの母が、よく父に叱られ泣いていた。父は厳格で、軍刀で斬られるのではないかと怯えていた。 戦争が激しくなり、飛行機が、前の自動車工場を攻撃してきた。一瞬止まっているかのように思えた。西洋人の操縦士の顔が、今もはっきりと思い出される。小学校の帰りには戦闘機が襲い、溝に伏せり避けていた。近くで、おばあさんが弾に当たって死んだ。よく帽子を忘れて帰り、母に叱られていた。 ・ 敗戦 戦争に負けると同時に、父母はピストルで武装した。南の全州(全羅北道)だったので、まだ、治安は日本軍が握ってはいた。が、朝鮮人はもう、いうことは聞かなかった。 父は思想の取り締まりをしていたので、狙われていた。 危険を感じた父は、知り合いの朝鮮人を通じて、夜陰にまぎれて脱出、ヤミ船でいち早く家族を内地へ送った。米軍やロシア軍が進駐する前である。途中の島で置き去りにされそうになったが、父がピストルを威嚇射撃し、無事、下関に上陸できた。後に続く仲間たちは、嵐で海のもくずとなった。国鉄の列車は満員で、窓から押しこんでもらった。 デッキにも、いっぱいぶら下がっていた。岡山に着くと、一面焼け野原だった。郊外だった沼は無事だった。父は再び朝鮮に渡り、職務が解かれた後、帰国した。 故郷に帰ってからは、空き家を転々とした。体の弱い私は、一時は原因不明の下痢や熱が続き、死にかけた。タヌキが井戸端に現れ、林では、キツネが啼いていた。進駐軍がやってき、軍艦、飛行機、天皇陛下の写真が禁止された。アメリカ兵がガム、チョコレート、コーヒーを投げてくれた。食糧がないので木の根を掘り煮詰めて食べ、あるいはドングリを粉にしてパンを作った。田のイナゴを捕まえて食べ、少ない穀物で雑炊を作り、飢えをしのいだ。米は強制供出のため、田舎にも食べるコメがなかった。住民の中には、鍋の底を叩き、泣きながら歩いていた。 落ち着いた頃、父が沼城跡に生えていた松を切り出し新築した。戦後、父は浮田農協の理事を勤めた後,経済を取り締まる岡山経済調査庁へ勤めた。その後、総理府の出先機関である岡山行政監察局勤めとなった。田2反6畝、畑山3反があり、私も小さいころから、田畑へついて行き、よくお手伝いをした。モンペ姿の母が気だるい体に槌打ち、草取りをしていた。白い割烹着姿の、体の弱かった母も丈夫になった。 ・ 少年時代 私は朝鮮では国民学校に入学していたが、終戦の混乱で思うように勉強ができなかった。地元の浮田小学校に、改めて1年生から入ることになった。勉強しないので母に叱られ、ホウキをもって追いかけまわされた。田んぼの稲藁の中に隠れ寝、大騒ぎとなった。その日の夕飯は食事抜きとなったので、翌朝、空腹のため飯釜の前で倒れて、気を失っていた。 先生からは、よく女の子をいじめて困ると母が注意された。小学校3年生の頃からは勉強ができるようになり、卒業の時は2番目の席に座っていた。その頃はよく遊び、特に野山で蝶の採集や、秋には懐中電灯で鈴虫や松虫等、鳴く虫を捕まえるのが好きだった。天然色の幻の蝶を追いかけている夢を、よく見ていた。両手を広げて空を飛ぶ夢も、よく見た。また、釣りに夢中になり、祖母と雨の中を蓑傘つけて、沼地の堀のフナやウナギ釣りによく出かけた。祖母とは同室に寝、いつも一緒だった。父と私には頭付きの魚を食べさせ、一番風呂に入れ、家長としての有るべき姿を教えてくれた。祖母の出は、源頼朝の家来である安達藤九郎(盛長)の末裔である。藤九郎は伊豆で頼朝の身の回りの世話をし、三河の守護を授かった。その後、安達家は池田の殿様に連れられて、岡山に住み着いた。 祖母の兄である安達憲忠は明治時代の自由民権運動の旗手として岡山で活動していた。岡山県令・高崎五六に追われ、福島の新聞記者になって逃れていた。心を入れ替えた安達憲忠は、かっての敵、東京府知事となった高崎五六に認められ、東京府庁に入った。渋沢栄一に抜擢され、養育院(現在の東京都養育院)を創設し、その幹事を30年近く任され、社会福祉の先駆者となった。 その妹である私の祖母・虎は、家柄とは程遠い、タバコを吸ったり、魚を釣ったり、立ち小便をしたり、品格に欠けた男勝りの女だった。家長としてのしつけは心地よかったが、キセルでタバコを吸う祖母を眺めて、ほんとかなと思った。気品のある祖父・熊吉とは対照的で、虎、熊のケンカと言われるほどの、気性の強い女だった。母もよく泣かされていた。しかし、私には、大切な卵や食品を隠して食べさせてくれた、よい祖母だった。 私も、祖母に似て、気性は負けず嫌いで、頑固ものだった。瀬戸中学に入ると成績はぐんぐん上がり、クラスで常に1番はもとより、全体で2番になった。特に数学は好きで、誰にも負けなかった。ノートは取らず、授業中は先生の説明をしっかり聞いていた。クラスの中に、黒い瞳の哀愁のある女の子がいた。目が合うと、恥ずかしそうにする奥ゆかしい女の子だった。勉強はできないが、とても好きになった。学校ではほとんど話はしないが、カバンの中へそっと手紙を入れたりして交際していた。胸がときめく毎日だった。この気持ちは、今までの女性に対するものとは異なっていた。私は性に対しては特に関心が強く、白いモチ肌の母の裸体を見てまぶしく思ったり、清潔な父母がセックスをするのかと思うとショックだったりしていた。小学校6年生から夢精が始まり、女性とすれ違うだけで勃起していた。対象はだれでもよかった。自分が異常かとさえ思った。この女の子への気持ちはこれらと違って、清らかな心の疼きだった。彼女から「お手紙お待ちしていましたが、とうとう待ち切れず、ペンを走らせました。私とても寂しく涙が出そうなくらい・・・・」とあった。 この人が、初恋の黒花 節子である。 学校での友人は光森君、入江君がいた。光森君とは小学校からの親友で、二人ですき焼きパーティをしたり、小便を遠くに飛ばす競い合いをしたり、危険だった自転車サーカスを競い合ったり、よく遊んだ。入江君とは瀬戸中学の理科の実験中、相撲を取って江尻先生に力いっぱいゲンコツを食らい、二人仲良く廊下に立たされた。卒業生を送る送辞の人選の時、職員会議で私が選ばれたが、この先生の反対で駄目になった。中学のクラスでは勢力が二つに分かれ、何事につけ競い合うことが多かった。3年の1学期では対立が頂点に達し、選挙を中止して、先生が中立の藤原君を学級委員長とした。私は何回も級長をやってきており、クラスでも人望があるといわれていたので、当然級長になれると思っていた。憤慨した父はこれを機会に、日頃薦めていた岡山市内の旭中学に、私を転校させた。さすが都会はレベルが高い、井戸の蛙だったことが身にしみてわかった。中学3年間、無遅刻無欠席で皆勤賞をもらい、無事卒業することができた。 旭中では須々木君という親友を得た。一緒に岡山操山高校を受けたが、彼は失敗し旭中に留年した。 ・ どん底の高校時代 岡山操山高校は岡山後楽園の近くにあり、環境には恵まれていた。男子の95%は進学する名門校だった。敷地内には予備校まであった。入学した当初は上位の成績だった私は、将来は一流の国立大学を考えていた。ところが成績の方は、見る見るうちに急降下していった。特に英語が悪く、私の番になると、「今頃、こんな程度のレベルでは、どうにもならない」と、1時間の説教が始まり、授業はストップした。先生に指名されると、緊張して、簡単な単語の発音さえ出来なかった。クラスに迷惑をかけるのが一番苦痛であった。父は先生と知人だったので、面目丸つぶれだった。副読本、プリントが洪水のように配られ、とうとう消化不良になった。胃腸の方も消化不良になった。続いてトラコーマ、蓄膿症、禿げ頭病とあらゆる病気で病院通いが始り、病気のデパートとなった。バレーボールの球が相手側のコートに入らないほど貧弱な体となった。体操の時間は見学となった。とうとう湯のみじゃわん一杯の食事が、1時間もしないうちに、白い飯のまま尻へ出るようになった。食べた物は胃壁から血と一緒に吐き出すようになった。栄養食を集めたり、自分で、栄養剤を腕や太ももに注射したが、効果はなかった。体重が40Kg近くまで減り、幽霊のようになった。1年の3学期から休学した。いろいろと試みたが治らず、このまま放っておくと、一カ月後には死ぬ、と医者に言われた。父の知人の紹介で、岡山医大に入院した。精神病棟の鉄格子の中だった。電気ショックで患者が飛び上がっていた。有名な教授から、精神分裂症と診断された。実際はマーゲン(胃)ノイローゼだった。薬も治療も何もしないのに、入院が決まると嘘のように、何でも食べられるようになった。入院して1週間になると、家族が恋しくなり、父母の面会が待ち遠しかった。この時ほど、親の有り難さを感じたことはない。初恋の黒花節子が見舞いに来てくれた。嬉しかった。2週間後に治療らしものとしてインシュリンを打ってくれた。猛烈に腹が空き、たくさん食べた。1ヶ月後には体重も7~8Kg増え47Kgとなった。もう安心という事で鉄格子の中から退院させてくれた。 もう一度、1年生からやり直すことになった。小学校の再入学と合わせて2年遅れたことになる。私は受験戦争に完全に負けたのであった。その後も身体はあまり丈夫ではなかった。勉強もほどほどであるから、父母の機嫌が良い筈はない。私は度々、反抗していた。父母が悪いわけではないことを充分承知していた。母はとても優しく、情操豊かで、人に対して思いやりがあり、心が清らかで、村人から「清ちゃん、清ちゃん」と慕われていた。よそからのもらいものがあると自分は食べなくとも子供に分け与えてくれた。 私にとって最高の母親であった。我ままな私に心を痛めたに違いない。父は子供たちにも、ココアや玉露をきゅうすで一人づつ入れてくれた。菓子のみやげを買ってきてくれたり、優しい面もあった。反面、正義感が強く、厳格で完璧主義者であった。物事を始めると終わるまで、食事は棚上げであった。間違っていれば、一人でも反対した。村人から煙たがれていた父だった。母にも厳しく、母はおっちょこちょいだったので、いつも叱られていた。耐えかねて、度々自殺未遂を図った。服毒だったり、鉄道の踏切だったり、そのたびに、気の遠くなるほど心配した。「順ちゃん、お嫁さんを貰ったら、一緒に連れってね」と泣いていた。学校から帰りに、田んぼで働く母をみて、ほっとする毎日だった。絶対に父のようになりたくなかった。後に私の子供たちが「お父ちゃんは、おじいちゃんにいつもペコペコしている」と非難されたが、父に対しては絶対服従であった。 ある時、私は父に反抗して、家を飛び出した。大阪で独立して、働こうと思ったからである。自転車に毛布をつけ、麦わら帽子をかぶって、ギッチラ、ギッチラ大阪へ向かった。 県境の船坂峠の登り坂はきつかった。途中、祖母からもらっていた500円で、卸問屋からアメを買い入れた。訪問販売をしながら、食いつないだ。学生という事で、同情して買ってくれた。明石の民家では、食事を出してくれ、こんこんと家に帰るよう説教された。河原の橋の下で、姫路城を眺めながら野宿した。蚊に食われないよう毛布を袋にし、すっぽり入って、入口をひもで縛った。ドザエモンのようであった。翌日,神戸を過ぎ、もうすぐ大阪だ。節約のため、パンばかり食べていたが、とうとう金がなくなった。最後に残ったアメでパンと交換してもらった。食い終わった頃、店の通報で警官がやってきた。家出人として,囚人と同じように、鉄格子の中に留置された。毎食出る、麦飯と昆布の食事がおいしかった。知らせを聞いて,岡山から母が迎えに来てくれた。私は帰りたくないと頑張った。それでは少年院行きだ、と言う事なのであきらめて帰ることになった。父と警察時代の同僚だった神戸の善田さんのところへ寄り、須磨の海水浴場で楽しんだ。「お兄ちゃんと結婚するんだ」と言っていた恵子と、キャッキャッとはしゃぎ回った。 その後も、学校の成績は芳しくなく、下がっていく一方だった。12Kmの道を、1時間かけて自転車で通学していたが、身体に負担がかからないよう、バスや電車に切り替えた。せめて試験科目の少ない名古屋工大でもと思ったが、もう勉強は皆についていけなくなった。性格は暗くなり、ドン底だった。成績は下から数えて数番目になった。男子300名のうち、就職した7名の中に、私も入っていた。私の高校生活は絶望の連続であった。 どん底の高校時代であった。 ・ 東京への夢 合格出来たんだ。今までの生活が嘘のようであった。パット光が差し込んできた。体の隅々にまで希望の光が差し込んだ。3月24日新しい門出、友人、先生、親類、近隣、家族と別れを惜しみながら、東京へ向かった。出発に際して、父母から人生への教訓を書いてくれた。「自信を持って邁進せよ」「公徳心を忘れるな」父、「人に対しては礼儀正しく」「お友達には好かれるような人になりなさい」母。そして日頃、父から「正しく」、母から「清く」生きるように言われていた言葉を、心に仕舞って出発した。 東京への夢は膨らんでいた。東京は、皇太子と美智子の御成婚準備で、花電車 など華やかに彩られていた。周りに見えるものは、希望と新鮮で満ち溢れていた。都会的情緒が、哀愁で胸を詰まらせた。上京は身一つであった。操山高の先輩である、早大生の鈴木君の下宿(新宿区早稲田南町)へ転がり込んだ。電池のいらない、小さなゲルマニュウムラジオを聴くのが唯一の楽しみであった。 ピーナツ姉妹の「黄色いサクランボ」という歌が、当時の情景を想い出させてくれる。 ・ いよいよ墨田都税に出勤 忙しい毎日であったが、いよいよ4月1日から,東京都職員として新しい人生が始まった。安井誠一郎・東京都知事(安井参議員の兄)から主事補を命ぜられた、行政職6等級4号6,400円が給付されることになった。1ケ月余の研修を経て、浅草に近い墨田税事事務所 徴収課管理係へ配属された。収入を集計管理するところである。決算期であったので、早速10時頃まで残業させられた。大場さんをはじめ先輩が帰りに御馳走してくれる酒、食事が楽しみだった。大場さんは外食ができない正月などは、家に連れて行って食べさせてくれた。皆から可愛がられ、忙しくても幸せであった。 忙しい時期に入ったとはいえ、役人が働かないのには驚いた。税金泥棒の話は聞いていたが、ウワサ以上だった。職員200名ばかりが、古い木造2階建のつぎはぎだらけの建物で、のんびりと働いていた。 そして、いつの間にか、私も溶け込むように同じ役人になっていった。 ・ 墨田の下町アパートの人情 役所に近い安アパートをみつけた、墨田区東駒形2丁目の元遊郭の町である。佐藤工務店の2階の2畳で、家賃2,000円である。共同炊事、共同トイレであったが安い家賃が魅力であった。布団しかなかった部屋も、給与をもらえるようになったからは、机、本棚とそろった。2畳の部屋は足の踏み場もなくなった。 近くには隅田川が流れていた。町職人のなめし革の臭いと、隅田川のドブの臭いが鼻を突いた。暖かい日は特にきつかった。また、夜になると、大きな南京虫に刺され腫れあがった。周りの人は下町の人情があふれていた。アパートの住人は、特に可愛がってくれた。全員で映画を見に行ったり、あちこちの部屋から夕食の招待があった。家庭的な温かみを感じた。ボタンを加工する小林夫婦、若奥さんに手を握られたことがある。町工場で働く渡辺母子、キャバレーの女給、それに私である。女給は、浅草の大きなキャバレーのナンバーワンであった。ある日、費用は女給持ちで招待され、危うく童貞を失うところであった。田舎の純粋な青年であったため、可愛がられたのかもしれない。 父母から毎日のように手紙が有り、仕事や人に対しての心構えを教えてくれた。父からは健康に留意し日常読書に励むこと、母からは身の回りをきちっとし、だらしのない格好をしないなどである。家にいた時は、早く独立したいと思っていた私だが、離れて生活してみて、初めて親の有難さが身にしみた。 ・ 青春を楽しむ 役人生活にも幾分慣れてきた。就職前から、夜間大学へ行こうと思っていた私は、2,3年先を目標に勉強を始めた。目標は役所向きの都立大の法律科とした。毎朝6時に起床、朝のうちに1時間半、夜1時間半、合計3時間は勉強できた。洗濯と身体拭きは毎日していたが、銭湯(風呂屋)は時間の節約と経済上の理由から、土曜日一回のみ行っていた。役所はのんびりしていたので、若者はテニス、野球、ハイキングと大いに青春を満喫できた。役所の昼休みにはコーラスを楽しんでいた。先生を招いて練習していた。 そこで、とんでもない失敗をした。週刊誌の記者が現れ、「役所の昼休みの有意義な過ごし方」を取材したいと申し出があった。コーラス部長であった私は、まんざらでもない気持ちで受けてしまった。週刊誌に載った私達の姿にびっくりした。「いかにして女を得るか」という題目で大きな写真が載っているではないか。皆から大目玉をくらった。雑誌社に抗議したが、後の祭りだった。 内気だった私は、自分で考えていた以上に活発であることが分かった。気軽に先輩の家を泊まり歩いていた。また、音楽を安く観賞できる「労音」に入り、毎月、オーケストラ、独唱会と楽しい日々が続いた。金がなくなると先輩の宿直の代行をやり、食費を稼いだ。無一文になると、隣の食堂「伊勢屋」でつけ食いをした。その食堂には、「お嬢さん学校」に通う美しい娘がいた。美人の娘を誘うため、二人のでっち小僧と仲良くなった。娘と4人でプールへ出かけたが、高嶺の花で終わった。その頃、二人の小僧は浅草で漫才の修業をしていた。冗談に「有名になれよ」と言っていたが、「東 京二・東 京太」と本当に有名になってしまった。青春は楽しい、お蔭で病弱であった私の体は見違えるほどしゃんとした。初年度は1日しか休まなかった。若さというか、気力というか、病気は心の持ちようだとつくづく思った。 そんな中、胸を締め付けられるような青春もあった。中学時代の初恋である黒花節子との、再会である。彼女は1年先に東京へ出たと、風の便りに聞いていた。3年振りに会ったのである。懐かしさで胸が一杯であった。ラジオプレス通信社へ勤務しながら、タイプライターの学校に通っていた。東京で何回か会っているうちに、中学校の頃に考えていたイメージとは、変わってきていることに気付いた。1年早く社会に出た彼女は、私よりはるかに成長していた。結婚の事も考えているようである。いろいろ話をしていても、最後に行き着くところは、その問題であった。これから勉強しようと意気込んでいる私にとって、責任の持てない交際は続けられない。しかし、別れようと思っても、また会ってしまった。寂しいけれど、交際は暫くやめることに決心した。 ・ 故郷恋し 夏になると家から桃、ぶどうが送られてきた。久しぶりに故郷の味をかみしめた。秋になると故郷が恋しくなってきた。宿直の夜など月を眺めていると、いつの間にか涙が流れてくることもあった。 12月久し振りに岡山に帰っての、母(44才)の手料理がとてもおいしかった。

    更新日:2014年2月21日コメントする(0)

  • 好きな数学を目指して(1960年4月|21歳)
    イトトンボ

    ・ 理大への入学 久し振りの故郷を後にして、再び東京の生活に戻った。2月に入るとかねてから頼まれていた時計を弟紘征にプレゼントをした。紘征から何通もの喜びの手紙が来ていた。毎日、仕事が終わると国立上野図書館へ勉強に出かけた。歩いて40分、夜6時から9時までである。途中にある上野公園には、ネッカチーフで頭を覆い、スカートの下はけむじゃらの足の「オカマ」がたむろしていた。女装した「オカマ」は、誰彼となく「お兄さん遊んで行かない」と誘いかけていた。 何とも理解し難い人種が、東京には多い。疲れた身体に鞭打ち、寒いネオンの町を「負けないぞ」と通った。エキゾチックな感傷的な街路が、頭の中に鮮明に焼きついた。 3月の半ば過ぎ、瀬戸中学の恩師、奥山大慶先生を訪ねた。同郷の赤坂から、東京の高校教諭になられた方である。先生には中学校の知能検査の時、君の能力だと岡山大学の医学部進学は大丈夫と、太鼓判を押され有頂天になったことがある。2・3年先の都立大受験の話をしたら、「今すぐ自分の好きな道へ入った方がよい」と、本年度受験を勧められた。間一髪で東京理科大Ⅱ部の入試手続に間に合った。一夜漬けの勉強をした。数学科定員100名のところ400名が受験し、何とか合格できた。法律を止め、理科系を選んだのは、時代の流れが事務のオートメ化であったことと、何よりも数学が好きだったからである。希望に満ちた学園生活が始まった。 ・ 安保闘争をきっかけに労働組合活動 入学してから間もなく、世情は安保条約で大きく揺れた。学園も職場も抗議ストが続き、国会議事堂周辺のデモは33万人に達した。革命が起こるのではないかと思った。私も昼は職場、夜は理大から参加した。演壇に上がって、「政府が悪い」とアジった。父母からの戒めも、耳に入らなかった。遂に国会へ突入、樺美智子が死亡し、1,000人の負傷者が出た。私は救護班につき、多くの人々の手当てをした。機動隊の数が増え、逮捕者が多く出た。私は警官に追われて、新橋まで走って逃げた。6,15事件である。 安保闘争を契機に、いつの間にか労働組合に引きずり込まれていた。いくつかの労働講座を受けた後、青年副部長に選出された。大勢の前で演説をした。当時の税務労組は強力で、人事にも介入していた。労組によって昇進を阻まれた人もいた。社会党系よりも共産党系の方が勢力が強かった。私も静岡の農家へ連れて行かれ洗脳されたが、共産党へはどうしても入党できなかった。考え方に、ついていけなかったからだ。安保闘争が終わってからは、勉強、仕事、組合と猛烈に忙しかった。10分間の時間が大変貴重で、「時は金なり」「時は使い方によってゆっくり進む」ということわざが、身にしみて感じた。仕事場では隣の人が産休に入り、2人分の仕事をかかえ限界に近づいた。睡眠時間は5時間を切っていた。時間を節約するため電気洗濯機を購入したり、人と会う時はあらかじめ時間を区切って会っていた。 それでも遊びとなると別で、テニス、野球、室内プール、海、山、コーラス、と跳ね回っていた。恋の移り変わりも激しく、プラトニックラブではあるが2~3ケ月毎に心変わりしていた。1年で3年分を過ごした感じだった。 ・ 親友 私には多くの友達がいたが、ほとんどが表面的な交際に終わり、真の親友はわずかしかいなかった。勉強に追われたせいもあるが、性格そのものが内気で、コツコツと一人で研究するのが好きだったからだ。親友には小学校時代の光森君、農業の傍ら魚屋をやっている。帰省すると、2人でよくダンスホールに出かけていた。瀬戸中学校時代の入江君、家業のプロパン販売店をやっている。帰省すると我が家に遊びに来てくれる。旭中学時代の須々木君、妹千恵と同じ富士銀行に勤めている。操山高校時代の藤井君。藤井君は家の事情で東大をあきらめた。音信不通になって数年後自殺したとの知らせがあった。自分の実家を売却し金を使い果たした後、湯郷温泉宿から雪の降る夜道に死の旅立ちをしたとのこと。遺体は雪融けの春、身元不明として発見された。堕落した生活の中から美しいものを見つけようと努力していた。友人として何もできなかった自分に腹立しかった。寂しがり屋の彼の顔が今も浮かんでくる。理科大でも新しい友達ができた。管野一次君である。彼は真面目で誠実な人柄だったのでよく気があった。菅野君は防衛庁でコンピューターによる高度情報分析を行っている。私も友人として登録されていて監視されているとのことである。後に小学校の先生と結婚したがその時の司会を務めたのが私である。 学生時代の友人というものは特別の親しみを感じる。青春時代の悩みや大志を語り合い、敏感な心が共鳴し合ったのだろう。

    更新日:2014年3月17日コメントする(0)

  • 独身寮と太田都税(1961年12月|22歳)

    ● 職員寮 昨年の暮、かねてから申し込んでいた独身寮に入れた。400円の低家賃は経済的に助かった。これは同郷の沼出身の操山校(旧一女・二中)の先輩である津下敦基さんのお蔭である。当時の独身寮は50人程度の収容能力しかなく、希望が殺到し、入寮は難しかった。たまたま、津下さんが31年東大を卒業し,総務局に勤めていたのでお願いしたものだ。津下さんの祖父母が,私の父母の仲人であったことや、遠い親戚にもなっていることで、ちょくちょくお邪魔していた。母親のコノさんは快活な方で,私の伯父二郎(東京の世田谷)との結婚話もあったと話されていた。終戦直後は岡山で生活されていたので,妹さんとはよくママゴトをして遊んでいた。岡山での津下さんは,色白でいつも勉強していた。現在は港湾局の部長をされている。 寮は中目黒にあり、国電山手線の恵比寿駅へは歩いて7分である。近くには、代議士の河野一郎邸や科学技術庁の研究所があった。周りには大木が残っており閑静な所であった。建物は木造の昔の兵舎をそのまま使っていたので、オバケ屋敷のようであった。 寮のおばさんは、昔、東京都知事 安井誠一郎のお手伝いをされていたとか、顔の広い方だった。 寮生は各局から集まっていた。一部屋に二人づつ入り、同室には同期の小野寺君が入っていた。彼は一番の成績で入都し、総務局総務部の庶務課に配属され、夜は都立大の法律学科へ通う秀才である。仲が良かったが、自ずとライバル意識も強くなっていった。夜遅くまで勉強し、お互いに徹夜する日があった。私がきめ細やかで粘り強く努力家であったのに対し、彼は柔軟でおおらかなスケールの大きい人であった。彼からは多くの面で学ぶことがあった。私の結婚式の時、多くの友人が褒め言葉で飾っていた中で、彼は「周りに左右されない私の生き方」を褒めた後、これからは「自分だけの生き方だけではなく、周りにも気を配りながら生きて欲しい」と 私の痛いところを突いた。 彼はエリートコースを順調に走り、美濃部知事の秘書係長を経て、現在、生活文化局の庶務課長をやっている。 彼には山形県から上京してきた幼友達の小岩和子がいた。眼のパッチリとした情熱的な女性だった。しばしば寮に遊びに来ていたので、いつの間にか私とも仲良くなった。お互いに好意を寄せるようになり、代々木公園などで会っているうちに、雰囲気に負けてキッスをしてしまった。私にとって、生まれて初めてのキッスであった。彼女は泣き、やがて結婚したいと言い出した。小野寺君の公認の下とはいえ、私には結婚の意思はなかった。今は勉強で頭が一杯であり、彼女とも別れた。最後の喫茶「ルリアン」で彼女は泣きながら帰っていった。数年後、中央大の卒業生と結婚したと聞いている。 その他、寮生には阿部君、大塚君、酒井君などと夜遅く明け方まで行き来し青春を語り合っていた。 ● 第一関門を突破 学校の方も忙しくなった。東京理科大には、物理学校時代から伝統として落第制度があった。関門は第一学年目と第三学年目である。今年は第一学年目で10科目である。一生懸命勉強した心算であるが、英語、化学、幾何の3科目が不合格となった。高校時代に苦手であった科目がそのまま表れた感じだ。追試験の結果、私を含め5名が救済された。数学科では100名のうち44名、前年度以前の留年者33名のうち11名合計55名が2年生へ進級できた。理科系は文科系と違って演習や実験があり、2倍の授業時間を必要とした。夜間部は時間の制約もあって、カリキュラムは自由に選択できなかった。したがって、進級出来ても次の年に単位を落とせば、事実上留年になることもあった。目黒寮にも物理科へ通っていた酒井という人がいたが,落第してしまった。私より7歳年長の人で,情熱的な勉強家だ。私の部屋へ来ては,夜3時頃まで科学の将来を語り合った。二人で空想の世界になると,あたかも学者になったような気分であった。最初の頃は私も心地良かったが、毎夜やってきて大きな話をされるとうんざりしてきた。落第したその夜、彼はうっかり石油コンロをひっくり返し、火の海となった。寮生全員で消化液をかけ,消防車が来る前になんとか消し止めた。火事は一部屋だけで済んだが彼は2週間の火傷を負った。しばらく、私が看病した。学校の成績は,彼の岩手の実家に直接連絡されていた。「御子息の成績では卒業の見込みがないので、他大学へ転校して欲しい」とのことであった。彼は悩んだが、それでも努力した結果、5年で卒業できた。その後、女嫌いだと思っていた彼が、指を切って血の恋文を書き,千葉市の時計店の娘に入り婿となった。現在経済局の係長をやっている。 学校生活は大変であったが、それでも暇を見つけてはサボっていた。近くの飯田橋のボート、パチンコ、神楽坂の喫茶店に菅野君や小野嬢らと通っていた。試験間近かになると、菅野君、鈴木君、岩崎嬢ら友人からノートを借りて試験に備えていた。お礼は、いつも田舎の両親が送ってくれるブドウであった。 菅野君は一年先輩であるが、進級できなかったので同学年となった人である。彼は真面目で誠実な人だったのでよく気があった。実家は福島の二本松で、父親は町長をやっていたが、政争に明け暮れ新聞で騒がれたほどだ。菅野君は代議士の紹介で防衛庁に入り、今は左官クラスでソ連の諜報活動をしている。 ● 大田都税へ転勤 目黒寮から墨田都税への通勤は、1時間半かかり大変であった。勉強が忙しくなると、労働組合の活動が負担になってきた。闘争は過激になり、組合の幹部が課長の机を叩き脅迫するようになった。違法行為で、税支連の7人が免職で辞めさせられた。 もう、ついていけなくなった。 特に若手は共産党系が多く、青年副部長の私が社会党系として孤立していた。役所の肉体的な仕事は耐えられたが、組合の精神的負担は苦痛であった。5月の異動には,通勤距離が遠いことを理由に転勤を希望した。大田都税の徴収課に決まり、やっと組合とは縁が切れた。裏切り行為のようだったが、皆温かく見送くってくれた。仕事は徴収の内部事務で、単調な仕事であった。太田は学校からは少し遠くなったが、寮からはかなり近くなった。最寄りの駅は歩いて6分の蒲田駅である。東側は川崎に接し、南側は海に面した中小工業地帯だ。出張すると硫酸の排煙でワイシャツにポツポツ穴があくところだ。北側は高級住宅地の田園調布で、出張すると裏手門へ廻される所だ。昼休みには近くの多摩川へランニンク゛に出かけたり、池上本願寺に散歩に出かけていた。仕事に慣れるにしたがって友達もできた。石原君、横山君と三悪人だと称して、石原君の葉山の実家などを泊まり歩いた。昼休みには決まって蓮沼の喫茶店に入り、女の品定めやエロ話をした。煙草も彼らから教わった。同じ事務所の斉藤洋子という女性が忘れられなくなった。色は黒くて少し美人かなといった程度である。女性らしい性格に引き付けられたらしい。他の係だったので石原君に仲介してもらった。彼女には同じ係の人と交際しているといって、はっきり断ってきた。数か月後、相談したいことがあるということなので、日曜日に渋谷でデイトした。今、心が揺れて迷っているとのことであった。結婚のこと聞かれ、私は両親の選んだ人と結婚するといった。相手の男性の苦悩に満ちた顔を知っていた。今後は友人として交際にとどめようということになった。別れ際に手を握ったら、彼女は泣いていた。その後、彼女はその彼と結婚した。 ● 長期の帰省 今年春の追試によってかろうじて2年へ進級できた私は、昨年の失敗を繰り返さないようにと、仕事より勉強の方へ力点を置き始めた。夏休みには、ブドウ出荷の手伝いと勉強をするため、長期の帰省を計画した。休暇を貯めておき、夏に集中したのである。 当時の夏休みは10日間も与えられていた。今では信じられないが、東京都が7日間、都税事務所長が1日、課長が1日、係長が1日与え、合計10日間となった。有給休暇を加えると3週間の帰省も可能だった。その裏には、税務労組が非常に強かったからだ。 8月4日 夜行列車で岡山へ帰った。朝6時から山のブドウちぎりが始まった。朝霧の中の、紫粉を吹くブドウの房は素晴らしい。ブドウを山から下ろし、家まで持ち帰る。納屋では商品として手入れ、選抜、箱詰めを行う。選荷場へ送りだして午後の1時に終わる。午後からは、岡山の市立図書館へ通い、好きな数学の勉強に精を出した。夜は、光森君とビールを飲んだり、ダンスに出かけたりしている。また、瀬戸内海に浮かぶ大多府島の海水浴場に出かけている。入江君とはパチンコして遊んでいる。旭中時代の木原嬢とは公園をデートして楽しんだ。東京の従妹である道子が来宅した。私は必要以上に世話をやいた。22日間の故郷の生活に別れを惜しみながら、夜行列車「瀬戸」にて帰京した。 ● 机がなくなっていた 長期の職場離脱をしていた私は、役所から忘れられたようである。出勤してみると、机がないではないか! 端っこの窓際に片付けられていた。次席のせいであることはすぐ分かった。大田都税に転勤してきてから、この次席とはうまくいっていなかった。山本係長は、勉強の面で何かと援助してくれ、可愛がってくれた人格者であった。しかし、お地蔵さんのように座っていることが仕事で、業務は係を取り仕切る次席に、すべてを任せていた。酒、マージャンが強く、ずうずうしく独りよがりなこの次席を、好きではなかった。ある日、仕事の事で口答えしたら、胸ぐらをつかまえられ、殴られそうになった。周りの人が止めてくれおさまったが、それ以来、仕事の情報をくれなかったり、事あるごとに意地悪をされていた。その後も、机は戻してくれなかった。係から離れた隅に方で、毎日封筒の宛名書きばかりさせられた。正規の仕事はくれなかった。私は抗議も反抗もしなかった。若さとは言え、自分でも長期に職務を放棄した罪深さに、気付いたからである。それよりも好きな数学へエネルギーを昇華しようと、意識的に努めた。かねてから勉強の方法について、具体的経験が先か、原理原則が先か、迷っていた。その仕事に関係ない変な問題を課長に相談した。課長はキョトンとしていた。話の途中で、ハッとした。経験ばかり求めていては、時が過ぎていく。短い人生には、原理を学ぶのが先で、後から枝葉を付ければよいと、自分で気づいた。 課長の奥さんは偶然にも操山高校の先輩だった。お宅にお邪魔した時、「勉強を頑張りなさいよ」と励まされた。10月の異動時期がやってきた。課長に外勤に出して欲しいと頼んだ。次席とうまくいっていないことを把握していた課長は、外勤係に配属してくれた。数日間は、武藤さんなどの先輩に連れて行ってもらった。武藤さんには良いところと悪いところを教わった。良いところは、差押えのコンビとして指導していただいたこと。悪いところは、毎日パチンコを教えてくれたこと。 ユニークな江口さん(総務局へ転勤)の励ましの助言をいただいて、一週間後には1日10件の差押と24件の現金徴収が出来るようになった。当時の差押は家電、家具、機械等の動産が中心で、そのために一人で10件の捜索をやっていた。ベテランでも、1日2,3件の差押と10件程度の集金が限度であったので、やる気十分だったと思う。ある時は町工場に飛び込んだら、自動機械が迫ってき、間一髪で命拾いしたことがある。ある時は、差押に行ったらいきなり日本刀を振りかざされ、身体が硬直し髪の毛がマンガのように逆立ったことがある。娘が抱きとめてくれなかったら、どうなっていたかわからなかった。ある時は従業員に取り囲まれ、パトロールカーに来てもらったことがある。壁に張ってる成績の棒グラフが見る見るうちに突出してきた。先輩が労働強化になると怒り出した。12月になると、疲れで倒れた。風邪の8度くらいの熱だと勤務や学校に出ていたが、9度になり遂に寝込んだ。3日間の床中となった。こうして昭和36年も暮れて行った。






























































































    更新日:2017年1月5日コメントする(0)

  • 女より神秘的な数学(1962年1月1日|23歳)

    2 女より神秘的な数学 進路に迷い
    神秘的な数学の世界 1962年(昭37年 23才) ● 初夢 「空の人間」に 私は初夢を続けてみた。全く同じような感傷的なものである。一人の奥ゆかしい女を愛した、あまり高くない、その体は幾分細かった。彼女も私を愛してくれた、死ぬほどだ。 あの美しい憂いを含んだ瞳が、私をじーと見つめている。動く手足のすべてに私は魅せられ、彼女は私に寄りかかってくる。私は切なさに、そして、なんのためにか胸は疼いだ。彼女はある運命にあった。彼女は一匹の鈴虫になってしまった。棚の上の薄暗いところに寂しく。彼女には、私より他に、求愛を受けている人がいた。美しいその人は、こんなつまらない私に、頼ってきてくれているのだ。彼女の哀れな姿に変っている、この鈴虫を、私は朝も昼も、そして夜も、片時も離れなかった。むせび泣く私に、彼女は片方のひげを動かして、じっと見てくれるのだ。彼女もきっと、泣いてくれているのだろう。私はどのようなことがあろうと、一生かかろうと、たとえ死のうと彼女を待とう。そして目が覚めてしまった。目にいっぱい涙をためて、泣きじゃくっていた。 どのくらいだろうか、ポーと座ったまま、布団の模様を見つめていた。放心したこの気持ちは、新鮮なものであった。私は物を考えるのを忘れていたのだ。昔の私は、少なくとも2年前までは、私は人間らしい生活をしていたのだ。昨年夏帰省した時、近隣への挨拶ができていないと、父母から言われショックを受けた。私はやりたくない時は、正直にやらなくても良いと考えていた。しかし、この考え方は弁解とはならなかった。私には確かに以前とは変わってきたところがあるからだ。税金を貧民から取り立て始めた頃だろうか、それとも、学校における数学という感情のない学問の影響によるものだろうか 、勉学、仕事、家事、それに組合の多忙から考える時間がなかったからだろうか。きっと全部に相違ない。人生を一つの型にはめ込み目的のためにはすべてを犠牲にし、女性にも本能的に追い求めていた。本当に、物質的人間になっていた。ある女性から「そういう生き方は、後悔する時が来ますよ」と言われた。高校時代醜いと思っていた行動が、今では平気でやってのけられるのだ。人が迷惑しょうがどうしょうが、私のすべての行動は責任を持たなくなった。完全に自分という人間は、自分の身体から抜け出しているのだ。「空の人間」だ。ただ機械でしかないのだ。私は武者小路実篤の「若き日の思い出」を読み、清らかな青春の喜びを身に感じた。私にもこんな愛が昔はあったのだ。私は人間の喜びを自分から消そうとしている。 私の現状を正当化するため、勉強しなければいけないと。頭が混乱してこれ以上まとまらなくなった。 1962年(昭和37年1月5日23歳) ● 神秘的な数学の世界・家庭教師 正月3日には、シャツ一枚で甲州街道まで2時間かけて走った。モットーは「闘士」「ねばり強さ」である。2月の試験に向けて、池上図書館や喫茶店で猛烈に勉強を始めた。会合や友人と会っていても、アラームが鳴ったら,さっと引き揚げた。2日間位まったく寝ない時もあった。短時間で睡眠させるためブロバリンも使った。人は私を称して「機械人間」と言った。しかし、結果は11課目中、解析と数理統計の2科目を落としてしまった。試験科目によっては、クラスの半分の者が0点というのもあって、先生にとっても下駄を履かせようがなかった。もっとも2年は落第制度はない。3年生になると数学を深く研究するようになった。数学の世界は素晴らしい。ユークリット幾何学で体験できたことも、非ユークリット幾何学では、頭の中でしか考えられない世界である。球面上で無限大が0になったり、0が1になったり実に神秘的な世界であった。新しい数学としては全体を体系づけて、群、体、環とまとめてしまった抽象代数がある。後に一部が中学、高校の集合論として重要視されるようになった。当時はお茶の水女子大の有名な数学者、亀谷先生、稲葉先生の客員教授に教えて頂いた。数学をやっている時は身体が震えるほど楽しかった。 妹より 「勉強の方はあまりガムシャラにやらなくてもいいんじゃないですか?落第しない程度にすれば。あまり毎日毎日息つく間のない生活だと、いつかはつまづきが来るような気がします。ぼんやりと一日ぐらい過ごす日があってもいいと思いますが・・・・・・。兄貴を説教したりしてごめんなさい。」と戒めの手紙があった。 そんな時、同僚の天野さんから姪の数学を見てやってくれと言われ、横浜のお風呂屋さんの娘、中学生2年生の家庭教師をやることになった。いかに分かり易く教えるかで苦労した。毎回食事つきで月4回2,000円で、当時としては良いアルバイトになった。しかし、横浜の郊外へ片道1時間半かかっての家庭教師はきつかった。半年くらいで、横浜に近い後輩を紹介し、代わってもらった。 ● 外国語にも力を入れる あれほど英語が嫌いだったのに、数学を学ぶためには、外国語がどうしても必要であった。学校では英語とドイツ語を勉強していたが上達のために、アメリカ人とフィリッピン人との文通による交際が始まった。かなり役立ったが、そのうち、アメリカ人からは背広を送ってやるというし、フィリッピン人は着物(和服)を送れと言い出した。経済的に無理なので交際は途中でやめた。墨田区に住んでいた頃の、キリスト教伝道牧師エディカーンズとの付き合いは、長く続いた。一緒に銭湯に行ったり、キャンプに行ったり、よく話し合った。千葉のキャンプ場では理想の女性内田嬢とプラトニックで楽しんだ。数学にはロシア語も必要だった。ソ連は数学では世界一流で、スミルノフの確立統計は特に有名であった。そこで、日曜日には、日ソ協会の日ソ学院でロシア語を学んだ。 ● 勉強するほどよく遊んだ それでも、御園や飯田橋でダンスの練習に興じたり、新宿御苑でフォークダンスを楽しんだり、あっちこっちパチンコに行ったり、コーラス部で歌ったり青春を謳歌していた。その頃はまだ土曜日午前中は勤務だったが、午後から休みなので、民間会社からコートを借りて、テニスを楽しんでいた。仲間としては石井君、大川さん、植野さん、宮川さんらである。冬には五色沼のスキー合宿、墨田の仲間森君などからの誘いで軽井沢スケート、夏には逗子、館山、上宮田の海水浴、志賀高原のテニスの合宿とよく遊んでいる。とはいえ授業をさぼった分、友達からあいかわらずノートを借りて試験に備えていた。日曜日には一人でゆっくりしたかった。きまって渋谷東急文化会館の10円ニュース、リバイバル作品上映の名画劇場で「ローマの休日」「史上最大の作戦」「十戒」「哀愁」「エルシド」「伊豆の踊子」「七人の侍」を楽しんで過ごした。活発に動けば支出も多かった。就職してから3年、給与は1万円、今の10万円に相当するだろうか時々父から小遣いを戴いていた。それでも腕時計を質屋に入れたりして、10円のパンにありついたこともあった。また、お互いに足りなくなると、頻繁に貸し借りしていた。遊び仲間は、新宿で朝帰りしたりした石原君、横山君、の3悪人組だった。彼らから煙草をを教わり、その後何十年も禁煙を試みては失敗し、悩まされてきた。また、新川君、府川君とも交流があった。一方少し余裕ができると、この頃から既に株取引を始めている。 当時は、ソ連の世界はじめての人間衛星で、ガガーリンは「地球は青かった」と叫んだ。 また、アメリカの偉大なケネディ 大統領が暗殺された。 ● 初恋との別れ 話は3月に戻る。試験が終わってほっと一息しているところへ、初恋の黒田節子が東京の生活をやめ、岡山の田舎へ帰ると連絡があった。年に数回しか会っていなかったが、別れるとなると急に寂しくなった。新宿の下宿先に行って、荷物を梱包し、チッキで送ってやった。かつ丼を御馳走になって別れた。彼女は既に23才適齢期を過ぎようとしている。彼女にとって悩みは深かったに違いない。私は「田舎のお母さんを安心させるためには、岡山へ早く帰って結婚するしかない」としか言えなかった。何人も妻が持てるならこの人も一人の妻としていたに違いない。 それからは、夢の中で、いくら探しても彼女の下宿先が見つからない、見つかった時は懐かしさが込み上げ、行ってみるとそこにはもう彼女は居なかった。空しい夢はその後も続いた。
    ● 妹も適齢期 正月は試験に備えて帰省しなかったので、試験が終わった3月に帰った。びっくりした、妹が2週間前から出勤がおっくうで銀行を休んでいると言うことだった。2月ごろ、父を省く家族全員が9度の風邪で倒れ、父上が看病されているとの便りがあった。その頃、妹の縁談があり父の依頼で、私も相手先の勤務会社を数社調べたことがある。原因は風邪の熱とも、縁談とも、医者のタマゴに失恋したとも、すべてが重なってノイローゼ気味になっていたのであろう。父母の苦痛はいかほどであったか想像できる。心配していたが、その後、突然、妹千恵が結婚を申し込まれたと便りがあった。富士銀行の野球の応援に行った時、敵側の日本銀行の選手に見染められたとのことであった。彼は日銀の野球の主将のほか、テニス、スキーとスポーツ万能だそうだ。言葉少ない変わった性格の持ち主ではあるが秀才であった。妹から「すっかりノイローゼも治り元気に勤めています。さて、結婚の事ですけど、いろいろ心配をかけてすみませんでした。今日、日銀岡山支店に勤めている人から結婚を申し込まれました。スポーツ万能ですし、すべての点で自分より優れています。私には勿体ないくらい。お母さん、お父さんは大変喜んでくれました。」と便りがあった。妹の好みのタイプは顔がくしゃくしゃで頭の切れる男性である。瀬戸中の男友達で北海道大学に進み、山で遭難して亡くなった斉藤君や、岡山東高教師「ゴカ」先生もそうだった。 私も良い男性をと思って見回したが、自信を持って薦めるような人がいなかった。私の友人の中で気が優しくて気心の知れた、妹と同じ富士銀行の須々木修一君を勧めた。が、妹は彼は素直すぎて、もっと、しんのある人でなければその気になれないとのことであった。 千恵達の話はすぐ決まり、秋には結婚式を挙げた。彼はハンサムで男性的であった。竹原家は軍人の家庭であったせいか、周りを気にしない堂々とした家族である。軍人であった父親の竹原潔は、後日、山崎豊子の「不毛地帯」の精神的モデルになった人である。 NHKスペシャルで詳しく放映された。彼の妹たちも活発であった。内藤家はどちらかというと外には控えめで、内ではしっかりとした生活だったので、お互いに慣れるまでには、時間がかかったに違いない。この時、出席用に、私が大丸にて18,500円(2か月分給与相当)で買った背広トロージャンは、その後、20年間愛着したのである。内側の布がぼろぼろになったので止むを得ず廃棄した。 ● テニスが縁でうっかり約束 7月になると決算と繰越事務が終わり、学校も夏休みに入り、楽しいシーズンがやってきた。テニスの合宿が始まった。さわやかな志賀高原である。テニスは3年間も練習していれば、一応試合に出ても恥ずかしくない程度になっていた。しかし、主税局長杯に団体戦で優勝できても、個人戦では、2回戦位で敗退していた。ただ、新人への指導はできるようになっていた。その一人に植原美佐子という女性がいた。どちらかと言えば大柄な方で、上達しそうな子ではなかった。練習中にコンタクト眼鏡を落としてしまい、一緒に探した。そのうちに個人的な交際となった。彼女は美人で情熱的な人であった。9月にはたちまち噂になり、周りで気を利かせるため、二人は常に一緒に行動せざるを得なかった。ある時、テニスの練習の後、一杯飲んでデートした。皇居前広場を散歩しているうち、雰囲気に負けキッスをしてしまった。コンタクトが落ちて、また、大騒ぎをした。うっかりして結婚をしてもよいと言った。しかし、それは酒の上でのことであった。酔いがさめて困ったことになったと思った。10月の初め、3年前期の試験が終わり岡山に帰ることになった。「順二さん最高に頑張ってくださいネ。美佐子は決して忘れてはいません、順二さんが試験の2週間は完全に美佐子を忘れていること・・・・大事な時間を侵害しないで済んだんですもの。」 美佐子は岡山の父から結婚の承諾を得て欲しいとのことであった。しかし、私には勉強第一にしか考えておらず、別れることは既に決めていた。レコード ツゴイネルワイゼンを贈り別れた。

















































































































    更新日:2017年5月10日コメントする(0)

  • ようこそ「我が人生」(2010年3月31日|71歳)

    ● 自己紹介 ・・・私は①「田舎暮し」をする71歳の現役サラリーマンです。岡山から20歳の時に上京し、都庁に入りました。新しい人生の旅立ちです。上京するとき、母から「清く生きなさい」言われました。この言葉が、私の一生の心の支えになっています。中目黒の独身寮から夜間の理科大に通いました。女より神秘的な数学に魅せられ、進路に迷いました。結婚してから八王子の都営住宅に住み、都庁勤めを続けながら司法試験を始めました。子供が3人生まれ充実した日々でした。司法試験の失敗と母の死で、父と同居したく、市原に新築しました。都心から2時間の自然に恵まれたところです。職場を大切にと管理職受験に変更しました。しかし、それにも失敗し、挫折と心の空白が生じました。子供が独立し、親の役割が終わるとさらに心が空しくなり、自分探しが始まりました。昔の恩人や旧友を訪ね歩きました。千葉命の電話もやってみました。放送大学で心理学を学び、一応、心の卒業もできました。その中で大切な生き方も学ぶことができました。それなりに自分の生き方として②「我が人生観」を作ることができました。また、自分の生きてきた証として③「自分史」も書いてみました。この自分史は23年前、3人の子供に贈ったものです。その後、孫ができ、ジジババとなり、退職しました。そして嘱託、再就職を得て51年間働いてきました。いろんなことがありましたが、あっという間の人生でした。71才の今を大切に、細く永くイトトンボのように、生きて行きたいと思います。 最後に④「お別れ会」です。

    ● ① 70才現役でも田舎暮しはできる・・・★ 房総に住み込んで35年、2時間の東京痛勤は辛いけど、休日の家庭菜園は楽しい。よく退職したらのんびりと田舎暮らしをしたいということを最近よく聞きます。しかし、現職でも田舎暮らしはできるのです。私達はサラリーマンを続けながら,昭和49年より千葉県の房総半島に住み込んだ入植者です。そこから東京までは2時間以上かかります。土日曜に田舎へ出かけ菜園を楽しむといった方法も考えないではなかったのですが、私は日常の中で自然の中に溶け込んだ生活がしたいとの強い思いがありました。便利を捨てても自然の豊かな環境を得たいと言う気持ちで一杯でした。私さえ長時間の通勤に耐えれば実現できるのではないかと考えていました。なにしろ田舎なので妻は最初、不安でした。環境を買いたいと思っていたので家そものは粗末なものでしたが、土地を拡張することに専念しました。最初は一区画、その後自然を買うのだと大きな口を叩き、地続きの宅地を4筆300坪、隣接する山150坪合計450坪を次々と買い込んでしまいました。私の理想郷でした。最高の自然を買うことが出来ました。ローン返済で生活は極めて苦しく妻は草木を食卓に上げて頑張りました。そこから、子供が3人巣立ちしました。確かに不便です。電車は1時間に1本しか走っていいません。最初はいらいらしていましたが、慣れるとそのゆったりした移りがなんとも味わいがあります。都会のコンクリートの中での勤務が終わって、東京から内房線の五井駅、単線の小湊鉄道に乗り換えると癒しが待っています。ゆっくりと走る車窓から田んぼのさわやかな涼風が田舎の匂いを運んでくれます。降りる無人駅に近づくと車掌さんが居眠りをしている私を起こしてくれます。一人しか降りない駅です。 農道は夜霧含ませた蛍がまといつきます。ふくろうがホーホーと鳴き、電線に止まって、私を出迎えてくれます。 朝、窓を開けると緑が一杯飛び込んできます。我家の庭には、リスが杉の木の間を走り回り、ウグイスが鳴き渡り、美しいキジ、野うさぎが住み着き、前足を上げ私の方をじっと見つめ挨拶をしているようです。何と素晴らしいのでしょう。毎日「素晴らしい、々」と連発していました。35歳の時でした。 あれから36年、私も既に71歳、でも東京の池袋で後輩を指導する現役サラリーマンです。現職でも田舎暮らしはできるのです。
    ★ 村人との付き合いが煩わしいとよく耳にします。でも、その地域の村人との付き合いを切っても、十分生きていけます。もっとも勤務先が遠いと実際には近所の人と付き合う時間が少ないのですが、それでも、私たちが入植した昭和49年ころは少しでも地元の人と馴染みたいと思い、酒1升を抱えて部落の一員として参加しました。しかし、これは農道や田の用水路の草刈り、掃除、土木工事が中心の村普請の参加でした。真夏の暑い盛りに、休むと罰金を取られていました。それでいて村人の冠婚葬祭には参加させてくれませんでした。役務負担、共益費負担のみでした。同じ入植者の一人が村人の行事を批判したところ、ある村人が猟銃を持って押し掛けてきました。入植者は次々と部落から脱していきました。取り残された私たちもそれに倣い脱しました。部落を抜けると不思議なもので、村人から話しかけられたり親切を受けるようになりました。勿論、街灯代や共益費の負担やゴミ捨ての掃除は一緒にやっています。お互いに割り切り、さっぱりとした気持ちで交際できるようになりました。
    ★ 田舎暮らしは不便(?)で、生活は原始的とお思いでしょうか、とんでもない、田舎でもサークル活動は整っているし、文化生活も出来ます。私達の近くには公民館があり、 文化・運動のサークル活動が自由に出来るようになっています。私も勤務の休みの水,土、日曜の週3日間は、二つの公民館のクラブに入って卓球の練習をしていいます。複数の公民館のサークル活動を利用すれば、自分の希望するサークル活動はほぼ満たされると思います。70歳といえば長老格になるが若者とさほど変わりなく活動が出来ています。妻65歳も大正琴、フラダンスと忙しい毎日です。決して田舎だとバカにしないで下さい。対抗試合、発表会、各地へ慰問と結構活動しています。妻はハワイでの発表会に参加し、私も同行し、ビデオに収めました。素晴らしいひと時でした。 また、東京に毎月1回クラッシクコンサートも出かけ、ベートーベン、ショパン、メンデレスゾーン、ラフマニノフ、の音楽を心の栄養としています。何も東京でなくても田舎でも文化活動はできるのです。 また、私の家ではオール電化です。 昭和51年、今から33年前からナショナルの電磁調理器、給湯は深夜電力温水器、風呂は24時間風呂です。 電磁調理器は当時大型で18万円しました。千葉県では一番最初だと思います。娘たちはガスの使い方が分らないと 学校の授業で恥をかく始末です。また、環境に優しい家庭雑排水を含む合併浄化槽の設置は市原市でも第一号と言われています。田舎でも、決して文化生活が出来ないわけではありません。
    ★ 休日の家庭菜園は楽しいです。 何よりも、自分で育てる野菜や果物はいとおしい。あたかも、子育てに似ている。自然に生えているいる木は薬や肥料をやらないのに病気もしないですくすく育っている。薬や肥料は、野菜の病害虫に対する抵抗力や自活力をなくしてはいないでしょうか。私は思い切って放任主義をとっています。土は耕やさず、草も取らない、肥料もやらない。ただ、土の微生物を日光と風雨から守るため、枯草を少し被うだけです。種をばらばらとまき、大きくなったら順次収穫する。“何もしない農法”つまり「自然農法」による家庭菜園を実施しています。最初は虫と病気で見事に全滅しました。やがて、根や微瀬物が耕したのであろうか、土がふかふかし、農家の半分くらいは収穫できるようになりました。しかし、まだまだ解決しない問題が未だに残っています。撒き立ての幼い野菜は虫に弱い、一晩で虫に食われることがあります。たくましい草は野菜の3倍の速さで伸びてきます。油断すると、あっという間に野菜は隠れてしまいます。これからもずっと闘い続ける課題であります。 そして、自然農法を続けている内に微生物の偉大さに気が付きます。土を軟らかくし健康でおいしい野菜を作ってくれます。自然農法ではよく土着微生物を有効に活用して健康野菜を作ることを口癖のように言われています。土着微生物って何だろう? 何か解からないが凄い力があるような気がします。何千年もその地域に耐えてきた菌、何か人間とも関係がありそうだなー。その地域に取れたものを食べるということが体にとって良いと言われているが、はてなぜだろう。その地域の菌と人の健康と関係があるのだろうか。食べた野菜と腸内細菌との関係があるのであろうか。その地域の菌が腸内に住み込んでいるのだろうか。とにかく、自然の土着微生物を信じて共存共栄していくつもりです。
    ★ 人生100も夢ではない、100と言う数字はなんと心地よいよいのでしょう。名曲100選、名水100選、100才万歳、私は20代まで人生80年と考え人生の設計を立てていました。しかし、今は人生100才も夢ではない。すでに4万人を突破したと言われています。私は今71歳現役、100才目指してがんばろう。私の周りの人で若くて頑張り過ぎて部長になった途端、バタバタ死んでいった人が続きました。何と40才代です。年金も貰わないで、妻子を残してあの世に行ってしまったのです。偉くならなくてもよい、能力のない私たちにとって「長生きが一番大切なのだ」生涯賃金も学歴ではない長生きのほうが勝る。そうだ、「100才長生き」を目標にしても十分価値があると考えています。生きる内容や質の問題があるが、とにかく、100才まで生きることだ。確かに、遺伝によってそれぞれの体内に寿命がセットされていると言う宿命を持っているが、それでも、その枠を乗り越えて最適条件を作りだすことも可能だと思います。完全でなくとも良い、では何が長寿にとって必要か、少なくとも自分の力で日常生活を維持できること、即ち他人に迷惑をかけないで肉体的にも、精神的にも充実した人生を送ることだと思います。むしろ、他人に役立つように現役で働くことによって少しでも世の中に貢献できることができれば最高です。 そのためにはまず、健康であること。といっても老人になれば、あちこちがほころび完全とはいきません。しかし、自分の管理しだいで軽度に抑えることは可能です。よく職場で「Nさん、そんな青びょうたんではダメだ、もっと沢山食べなきゃあ、元気にならいぞー」とよく言われます。私の弁当箱が300gしか入らないからです。たまに一緒に食べに行くと私の食べられない残りにありついているくせに。私は「馬鹿だなー! Sさん、一生に食べる食物の量は決まっているんだよ。沢山食べるほど早く死ぬんだよ。」「食事は少なくても、この俺の仕事への抜群の働きは何だよ」と反論しています。私は常々「健康優良児は早死にする。」と言っています。それは、健康であればあるほどその身体は早く成熟し、その役割は終わり、用なしとなって朽ち果てる。腺病体質の青びょうたんは未熟が故に、まだまだ完成に向かって努力する。省エネだが少しづつ努力する。それが長く生きられる力だと考えています。これは、野菜を育てる過程で教えられたことです。一般に化学肥料を使うと、早く大きく育つ。一見、立派で健康そうに見えるがあっと言う間に枯れてしまいます。自然農法では速効性の化学肥料はつかわない、時々、枯れ葉や枯れ草を被い微生物を活用して微量栄養素を補っています。肥料が少ないだけ、成長は遅く、色はは淡く、これで大丈夫かと心配でしょうが、しかし、そうちに、少しづつだが確実に成長してくれます。そして、既に化学肥料を使った野菜が終わったあとも、長い間収穫できるのです。しかも、こぼれ種で生えた日当たりの悪い場所の野菜は、腺病体質の青びょうたんではあるが、さらに長生きしているのです。日陰の植物ほど長生きしているのです。 私たちの食事にとっても同じです。まず少食でよい。 多食だと早く成熟し、体に老廃物がたまり長生きできない。少食の省エネこそ長生きの秘訣であると思います。次に栄養面です。昔からの粗食でよいと思います。昔はあまり加工しない、即ち、自然のものが多い、穀物を丸ごと、そこには穀物自身が毒素を消す自衛的なバランスの取れた栄養を自ら蓄えてくれいるからです。そもそも特定栄養素だけ精選したサプリメントなど一時的に効果があってもいずれはバランスが崩れかえって毒となります。私達は自然との調和なくしては生きていけないと思います。自然を加工すればその歪みを将来受けることになる。私達の周りには微生物が沢山いて自分の知らないうちに助けてくれています。私たちの大腸には土着微生物を含めて500種の微生物が居り、善玉、悪玉、中性を含めて、消化吸収に役立っています。 私たちはこの自然の営みと共存共栄しながら省エネで生きていくことこそ100歳現役も夢ではないのだと思っています。 イトトンボ

    ● ② 我が人生観・・・1 果てしない宇宙の中で、私たちは一点にしか過ぎない。死ねば再び同じ私は生まれない。だからこそ私たちは限られた命を大切にし、充実した人生を送ろうとするのだ。充実した人生は①「その人なり」②「その人自身」の人生を築いていくことである。①「その人なり」とは、一つには、その人の持っている個性を生かせていくことである。人まねでなく自分の花を咲かせているからこそ美しいのだ。 二つには、その人が持っている能力を精一杯生きることである。能力がなくとも一生懸命努力しているからこそ素晴しいのだ。 精神力で当たれば能力をさえ越える事もできるかも知れない。 ②「その人自身」の人生とは「自らの目標を持って主体的」に生きることである。その目標は小さくてもよい。どんな問題でも自分自身が生きていく目標へのつながりをもって受け止めなければ真の意味をもたない。自分の目標に根ざしてこそ主体的に問題が解決でき、かけがいのない自分の人生を生きていくことができるのである。
    2 人は自分で自分の人生(目標)を選ぶことができる。しかし自分の姿がわかっていなければ、自分が何に適し何を求めているかわからず、人生の選択は難しい。自分がどんな人間であるかは、人と人との付き合いの中で相手を鏡として自分の姿を写し出していくしかない。それでもなお、心の奥底の本音は無意識下に抑圧されていて、自分にも気がつかないことが多い。そんな時は、心を無にして自分を見つめ直せば、必ずや発見できると思う。本音の自分に気がついたとき、心に安定感と自信が湧き、社会への生きがいを見つけることができるであろう・
    3 しかし、本音で生きるといっても全く自由というわけにはいかない。他人を犠牲にした自由な生き方などある筈がない。相手を大切にした本音である。相手に受け入れてもらえないのは自分に何か欠陥があるからだ。先に相手を受容できるよう自分が変われば相手も受け入れてくれる。また、自分の人生に不平、不満や、人のせいにしてはならない。最後は選んだ自分に責任があるからだ。 むしろ、人を非難する前に、自分が生きるために、多くの人の愛や世話を受けてきたことを思い出すべきだ。その愛に我々は応えられただろうか。その愛にお返しできなかった自分の責を、無意識のうちに相手に転化し、非難してはいないだろうか。その証拠に、自分も同罪だと気づいたとき、他人へも寛大になり、真直ぐに考えらるようになるからだ。 その受けた愛を大切にし、生きていこうではないか。人々の愛を受けていると思うと、勇気や自信が湧くものだ。その後の人生が楽しく幸せなものになる筈だ。
    4 幸せはこのように、世の中を自分がどのように受け止めているかにかかっている。金や地位がなくとも、自分にとって必ずしも不幸せではない。有れば不安の方が大きいかも知れない。 幸せは、自分が幸せと思うから幸せなのであり、自分の心の中にとらえるものである。同じものを醜いと見る人は、その人生は不幸であり、清く美しいと見る人は、それだけで幸せな人生である。 また、幸せは、自分だけのものではない。人の幸せを自分の幸せと感じる心を持つことができれば本当に幸せであろう。
    5 私達がどのように充実した人生、幸せな人生を生きようとも、人はいずれ死んでいく。どんなに美しくても姿、形あるものはやがて朽ち果て、人の体も土となっていく。有ったものが無 くなって自然の中に還っていく。永遠に残るのは美しい心だけである。多くの人から頂いた愛を私達も生きている間に少しでもお返しできれば幸いである。自分を空っぽにしてこそ、安らぎがあり、永遠の幸せがあるのだ。これが私の得た人生観である。
    平成5年12月8日(平成14年11月更新)(平成22年3月掲載) イトトンボ

    ● ③ 自分史「清らかに生きたい」・・・後日

    更新日:2013年1月5日コメントする(0)