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  • エキスポ70(1970年5月27日|13歳)

    中学1年生だった、大阪千里丘陵で開催された大阪万国博覧会に学校の行事として見学に行った。

    当時、広島の宮島あたりではそれほど外国人に出会うことは多くなかった。
    万国博会場で外国人をみつければ誰かれとはなしに「ハロー」と声をかけてはマシンガンのような英語の返事が返ってきて、いつか英語がペラペラしゃべれるようになりたいと思った。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • 広島YMCA夏期講習(1972年8月10日|15歳)

    中3の夏、YMCA夏期講習に通いながら夜は電話級、電信級アマチュア無線広州に通った。国家試験よりかはイージーだけど一応試験はクリアしなければならない。従事者免許を取得して開局したかったけれど受験勉強があるのでしばらくおあずけ状態だった。

    YMCAからの帰途、積善館書店で高専の入試問題集を見つけた。それまで、広島市内5校を受験希望だったけれど、詫間電波高専第一に変更した。担任のY先生に相談しても呉高専には先輩の受験例はあるけれど詫間電波高専というのは初めてなのでなんともと中途半端な返答だった。

    ここでの選択が正解だったのか正解でなかったのか、以後、あじわい深い人生への第一歩をスタートさせた。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • 33泊34日ユースホステルの旅(1975年8月18日|18歳)

    高専3年生の夏、それまでのアルバイトの資金をもとに33泊34日ユースホステルの旅にでかけた。

    広島の実家をスタートして、中国、近畿、舞鶴からフェリーで小樽、北海道、小樽から敦賀、近畿、四国と旅してまわった。

    途中、1週間のみ予定を急きょ変更した所があった。それは和歌山県潮岬である。潮岬YHに宿泊して恒例のミーティングに参加していて、エンディングの際に大阪の女子大生ヘルパーさんが、「私達、今日が最後なんです。ホステラーさんの中で旅程に余裕があって一日でも二日でもヘルパーができるという方がいらしたら、お願いできませんか?」

    その言葉に、のってしまった。切符は無駄になったが予定を変更して1週間そこで初めてのヘルパー体験となった。

    このでのヘルパー体験が病みつきとなって、以降、学校の休みといえば旅行するよりも潮岬でヘルパーにいそしむようになってしまった。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • 海上自衛隊横須賀教育隊(1)(1979年4月17日|22歳)

    広島から佐世保・長崎発の寝台特急に乗って一路横須賀を目指した。
    たまたま、向かいの寝台にいたのが佐世保高専出身のKだった。同じ高専卒公募海曹の同期だったのだが、あまりの偶然に驚いた。

    横須賀の御幸浜について、今までとは打って変わった厳しい生活が待ち受けていた。同期は28人で全国の各地の高専や工科系短大卒業者だった。

    着てきた私服はとうぶん用がなさそうで、ロッカーにしまいこんだ。白い制服に袖をとうしたけれど、様にならない。しかしながら、いきなり3曹である。

    同じ敷地の中には曹候補学生や練習員課程学生がいる、彼らからすれば階級章がすべてである、今日いきなり制服をまとっても上級者は上級者である。

    敬礼をされても、返すすべを知らない。

    翌朝から、総員起こしのラッパとともに起こされて、ただちにランニングである。

    短艇、水泳、射撃、陸上教練、持久走、日ごと日ごとに体力がついてきた。

    更新日:2012年8月16日コメントする(0)

  • 海上自衛隊幹部候補生学校入校(1982年7月1日|25歳)

    第16期一般幹部候補生(部内)として広島県江田島の幹部候補生学校に入校した。白砂青松の風光明美なこの地で1年を過ごすことになる、感慨無量なおももちだった。

    先輩からの申し次で、小用にある下宿を借り受けることになっていたが、下宿を利用できるのは1週間のうち土曜の夜だけである。

    入校してただちにあったのが遠泳のための訓練で、プールで海で頻繁に泳がされた。

    朝から晩まで、息つく暇もない生活の中で時間をいかに無駄なく使うかということを身体が覚えていった。

    これは、その後の人生の大きな宝となった気がする。

    更新日:2012年8月17日コメントする(0)

  • 米国派遣(1990年10月3日|33歳)

    平成2年から平成4年まで、米国留学の機会に恵まれた。行き先は東海岸ニュージャージー州で、長男が3才、長女が1才で手がかかる盛りであった。

    日本でのウサギ小屋の生活からアメリカのコンドミニアムでバスもトイレも二つずつあって冷暖房もお掃除サービスもこみで、わずかの期間だけどリッチな気分を味わった。

    生活を始める上での問題は車の購入と米国での運転免許の取得だった。私と妻は英語の運転免許試験の問題集とにらめっこで数日後の試験本番に臨んだ。なにぶんにニュージャージーの片田舎なので車がなければ食料品にも事欠く事態だった。

    子どもたちの主治医の設定、保育園への入園手続き、銀行口座の開設、初めてのことだらけで、バタバタしながら落ち着いた頃にはクリスマスソングが流れていた。

    更新日:2012年8月17日コメントする(0)

  • マラソンとの出会い(2003年4月1日|46歳)

    防衛庁第2研究所勤務のとき、その時の研究室副室長がマラソン好きの人が韓国慶州での桜マラソンに参加するので、通訳で一緒に行ってくれないかと誘われて、ちょうど韓国語を勉強していたことから一緒に韓国旅行とあいなった。

    ただヒトの走るの見ても仕方がないので私も10kにエントリーした。
    釜山から入って、慶州に向かいレース当日を迎えた。

    桜満開の湖を2回周回するのが10kのコースだったけれど、老若男女が思い思いに心地よく走る姿をみて、走る醍醐味を初めて味わった。

    それがきっかけとなって、ついには富士登山競走に参加するまでになった。

    慶州ではマラソンが終わったあとは、上司とは別々の行動でわたしは韓国語の学習のため、ソウルでのホームステイを設定していた。

    更新日:2012年8月17日コメントする(0)

  • 富士登山競走(2004年5月20日|47歳)

    平成15年の暮れに、世田谷の第2研究所勤務から横須賀の部隊に転勤となった。そこには幹部候補生学校同期に府立高専出身のK3佐がいた。

    「富士山に行くけど、一緒にいくか?」、富士山は未経験だったのと単身赴任だったので、二つ返事で「行く、行く。」と軽く応えてしまった。

    金曜日、仕事を終えて彼のバンで富士山のふもとに向かうことになった。そこで初めて耳にしたのは、「歩いて登るんじゃないんだ、駆けて登るから、そのつもりでいてくれ。」

    富士山吉田口の馬返しで野宿して早朝、起床、体調を整えて山頂を目指した。「おれは先に行くから、自分のペースで付いてきていい。」

    5合目までなんとかたどりついた。そこで待っていた彼は「ちょっと山頂まで行ってくるから付いてこれるところまでついて来い。」

    さすがに初回では山頂まではついていけなかったが、それが富士登山競走への前哨であった。

    週末は機会あるごとに、彼につきあって1泊2日の練習に励んだ。

    富士山を駆けて登るという経験は、気力体力のかげりを見せ始めていたその時期のわたしに自信をよみがえらせてくれた。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • 北京ホームステイ(2008年12月19日|51歳)

    数年続けてきた中国語の学習成果を確認するべく、北京ホームステイにチャレンジした。

    成田を夕方発って、北京には深夜に着いた。北京空港では学校の職員の人が名前を書いた紙を掲げて待っていてくれた。テレビ中国語会話のヒトこまにありそうな光景だった。

    ただ違ったのは、スーツケースが着るものをとにかく出してください。
    理由はすぐにわかった。空港を出ると気温はマイナス11度と体感したことのない寒さだった。

    ホームステイ先に着くと奥さん対応に出てくれて、暖かいジャスミン茶をふるまってくれて、明日以降の食事や生活のことについて中国語で説明してくれた。

    昼間は語学学校があるので、北京の郊外のホームステイ先からバスと地下鉄を乗りついで、学校で過ごし夕方にはホームステイ先に帰るという生活を続けた。

    四声の発音が適切でないので、意味が通じずこまる時が少なくなかった。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • SNSへの参加(2009年2月24日|52歳)

    旅行ツアーを探していて、ふとたどりついたのがある中高年向けのSNSであった。

    毎日、中国語の新聞の記事を翻訳してのせたり、色々な想いをつづっていて、マイフレさんも日に日に増えていった。そんなとき、オフ会の誘いを受けた。

    SNSにおいて他の人と顔を合わせる気はなかったけれど、これも何かの機会と千葉の飲み会コミュでオフ会デビューをはたした。

    これが縁で色々な人とつながりができ、オフ会参加がやみつきになっていった。

    いきががかり上、コミュの管理人も引き受けた。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)

  • 定年退職(2012年5月25日|55歳)

    永いようで短かった海上自衛隊での33年間の勤務を終え、本年5月25日に55才の誕生日を迎えて定年退職となった。

    4月には定年退職の記念にと11日間、世界最大のクルーズ船でのカリブ海クルーズを楽しんだ。

    再就職先での仕事に早く慣れること、そして階級意識をぬぐいさり謙虚な気持ちで仕事にのぞむことが大事だと思う。

    更新日:2012年8月18日コメントする(0)