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Kozuさんが最近登録した自分史(経年順)

  • 誕生のころ(1971年2月|0歳)

    記憶は全くない(当たり前だろうが)。母親が里帰り出産するために実家へ帰っていたので、産まれたところと産まれてからしばらく住んでいたところとは違う。自分が知っているのはそれだけ。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 幼稚園時代(1975年4月|4歳)

    幼稚園は歩いて通っていた。覚えていることは少ないが今のうちに記録しておこうと思う。

    ・入園時
    自分の中で最も古い記憶と言うのが、幼稚園入園時、目に焼きついた景色。つまり、自分が部屋の中にいて、窓越しに母親が外にいる。自分はなにか不安を感じ、大泣きしている・・・という状況。それが、自分の中で最も古い記憶。

    ・幼稚園での生活
    自分は2年保育で幼稚園に通った。年少(今で言う年中)ではあおぐみ、年長ではそらぐみだったかな。年少のときの記憶と言うのはあまりないが、幼稚園でうんこ(おしっこもあり)をもらしてしまった記憶はある。そのとき、先生が優しくしてくれた。パンツを変えて家に帰ったとき、なんか、恥ずかしかった。年長では、組毎の部屋の間を、お店やさんごっこをして行き来して楽しかったという記憶と、意地のわるい女の子が男の子をいじめていたという記憶がある。それ以外はない。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校1年生(1977年4月|6歳)

    担任の先生はS先生。1年8組。板張りの床とストーブがあったのを思い出す。いじめっ子によくプロレス技をかけられた。初恋はこの時代、隣に座ったI.T.さん。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校2年生(1978年4月|7歳)

    担任の先生はY先生。2年3組。担任の先生が自分の母親と風貌が似ており、「お母さん」と間違えて呼んだことがあった。1年生のときはM小学校だったが、生徒数が多くなったため、2年生からH小学校に転校した。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校5年生(1981年4月|10歳)

    担任の先生はK先生。5年1組。自分の組での記憶が薄いのだが、強烈に残っているのは5年3組の先生(おばさん)が怖かったということ。当時、「牛殺し」といわれた体罰なのだが、その先生が両手をグーにして、叱る相手の子のこめかみのところに両側からグリグリ押し付けるという体罰だった。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校6年生(1982年4月|11歳)

    担任の先生は5年生と同じ。6年1組。この組で、このあとの人生を方向付ける(と自分の中では今でも思っている)出来事があった。それはその小学校で言っていた「代表委員」という役員を組から選ぶ学級会のときだった。
    級長という役は、クラスの代表としての役なのだが、代表委員というのは、学校の行事などをとりまとめるための役で、高学年の子のみで構成されていたいわば学校の代表みたいな役。役なんていうものは、誰もなりたくないわけだが、先生がまず「立候補は?」と問いかけたが誰もいなかった。そして、「それでは推薦は?」と聞いたとき、そこのクラスの女子だったMさんが、「Kozu(もちろん、本当は本名)君がいいと思います。」と言ったのだった。
    今まではしゃいだり、授業では手を上げて発言することはあったものの、クラスの生徒の代表である級長等はやったことがなかった。そして結局、そのまま代表委員になったのだった。
    なーんだ、それだけか・・・と思う人もいるかもしれないが、自分にとってそれは貴重な出来事だった。「代表」となることを推されたということから自分自身に自信がついたし、そして「代表」となると文句ばかり言えないものであり個人の事情、感情はある程度抑える必要があることをこの歳で学んだのだった。
    それはそれ以降のいわゆる「役」を受けたときの心構えとしての基礎は、この代表委員での経験によってできたのだと今でも思っている。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校の部活動(1982年4月|11歳)

    やっていて楽しかったと記憶のあるのが、その小学校にはあり他では聞いたことがなかった部、一輪車部。一輪車に乗って、いろんなことができるように練習する部だった。学校行事ではプラカードをもって行進する役割を担わされ、全校生徒の前を一輪車に乗って走った。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 小学校時代の遊び(1982年4月|11歳)

    ・遊び:野原や山で
    住んでいた家は、山を切り崩してできた造成地だったためか近くに野原、といってもうっそうと草が生い茂っていたり、木が育っているところがあり、もう少し歩いていくと山があったりと遊ぶ場所には事欠かなかった。そこでは、友達と「基地」と称して、大きなの木の下にダンボールをひいて座って話したり、水が流れているところを堰きとめて「ダム」とか言って遊んでた。カメの形に似た丘を「カメ山」と言って遊んでいたことを覚えている。野原や木のかげでは、ヘビやいろんな動物に出会うことができた。野原だったところは、今は開拓されて道路や橋がかけられている。

    ・遊び:川
    小さいころにいろんな経験ができて良い環境だったなあと思えるもう一つの場所が川だ。近くに川が流れていたのだ。それは今でも流れている。さすがに泳ぐまではしなかったけど、もものあたりまで水につかったりしてみた。そんな遊びをしているなかで、「流れている水の中で立っていることは相当力がいるし、難しい」ということを肌で感じたのだった。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 中学校1年生(1983年4月|12歳)

    ・学校生活:1年生
    1年8組。担任はO先生。このO先生というのが、教育熱心で有名だった男の先生だったが、今となってみれば少し頭がおかしいんじゃないのか?と思える人だった。それは、生徒たちがあまりにも、成績があがらずその原因は普段からの勉強を怠っていると思っているO先生の言動からそう思えたのだ。
    「今からこの紙に名前を書け」「おい、おまえ今度砂糖もって来い。」砂糖を指示通り持ってきた生徒から砂糖を受け取り、名前の書かれた紙と砂糖を、ビンに入れてこう言うのだった。「お前たちは甘い。甘すぎる。今のお前たちはこの砂糖漬けのようだ」と・・・・。この、いわば「砂糖漬け」事件は強烈な記憶となって今も残っている。
    この1年生の時に、小学校6年生の時にやった「代表委員」という役をやった実績があったからかもしれないが、クラスの過半数から推薦を受け、なんと下期に生徒会役員へ立候補することとなったのだった。中学校の2年生、3年生を前に演説をしてすごく緊張した。ご飯があれほど食べられなくなったことはないってほど、食事がのどを通らなかった。その後選挙をして、結局当選した。当選したあと、生徒会の役員としては2年生になってから半年の間、生徒会の会計をやっていた。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 中学校での部活動(1983年5月|12歳)

    ・部活動
    1年生のとき、部活動の部を決める会が体育館であった。自分は家に卓球台があって練習していたことから、卓球部に入ろうと考えていた。ところが、希望者が多く、抽選に外れると全く好きでもない部に入ることになりそうだったので、悩んだ挙句、まだこっちのほうがいいと入ったのが「報道部」(笑)。つまり、学校内に壁新聞を作ったり、放送番組を作る部。いろいろと取材をしたり、楽しかったが、最も印象に残っているのが昼の放送で流した番組つくり。3ヶ月をかけて準備したが、結局放映できたのが、3分。
    番組というのは準備に莫大な時間がかかることを痛感したのだった。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 中学校2年生(1984年4月|13歳)

    ・学校生活:2年生
    2年8組。担任はS先生。S先生はパンチパーマをしていて、肌は真っ黒に日焼けしたやせぎみ体型の先生だった。この先生、怒るとものすごく怖かった。一度、こんなことがあった。当時、女生徒の体操服が学校から盗まれた事件があったとき、自分と友人がその事件の容疑をかけられたことがあった。(理由は、部活動をさぼってふらついていたためなので、かけられてもしょうがないのだが・・・もちろんそんなことはしていない。)先生は必死なので、自分と友人一人ずつを各々別室で正座させ、そのとき何をやっていたのか、連日問い詰めてきた。もともと、部活動をさぼっていたので、正直に話しても怒られる。そのとき、Kozuは自分の体面を保つための嘘をついてしまった。若いときの過ちだ。そのため、もう一人の友人と証言が食い違い、また問い詰められることとなった。このとき担任のS先生から毎日放課後1対1で尋問されたのだが、本当に怖かった。大人になって思うが、あれはチンピラの脅しの文句だったような気がする。どういうところでS先生は覚えてきたのだろう。この事件で嘘をつくとどうなるか思い知らされたが、大人になった今でもきっと心の中のその経験は、自分の考え方の深いところで生きているのだと思う。(下手な嘘はついてはいけない。付くなら最後まで貫き通せる見通しがたっているか、貫き通せる自信がなければいけない。)

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 中学校3年生(1985年4月|14歳)

    ・学校生活:3年生
    3年5組。担任はH先生。H先生はサッカー部の担当の先生で、学校では人気があった英語の先生。クラスをまとめあげるカリスマのようなものを持っていて、記憶にあるのは黒板に尾崎豊の歌詞を書いて話をしていたこと。学校の先生で授業中にそういう話をする人はほとんどいなかったので今でも覚えている。3年生のときの出来事といえば、班が一緒になった男3人、女3人で付き合ったことだ。誰かのうちに遊びに行ったりしてました。この付き合い、高校1年生ぐらいまで続いたけど、高校が違うこともあり自然消滅した。
    卒業式が近くなると、クラス全員で歌う歌を練習するようになった。長渕剛の乾杯。今でもこの歌を歌うと懐かしさがこみ上げてくる。そして、卒業式の日。みんなで肩を組み乾杯を歌った。涙しながら義務教育との別れを感じた日だった。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 高校1年生(1986年4月|15歳)

    ・学校生活:1年生
    1年2組。担任の先生は物理の先生でO先生。男女共学の普通制高等学校でした。当時、その高校は「自由な校風」というのが有名でその校風にあこがれて受験し合格、晴れて入学となりました。そのころはまだ自由な校風があり、いろんな面で自由(=責任ある行動をとるならば・・・)なところが好きでした。
    お昼ごはんは、毎日弁当、ただし土曜日だけはパン食で近くのO商店がパンを高校に持ち込み販売していました。チョコクリームパン(アーモンドチョコがコッペパンの表面に塗られていて、中身はカスタードクリーム)が一番好きでした。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 高校生 モテテたころ・・・(1986年5月|15歳)

    高校1年生のとき、2人並んで机を配置するのではなく、一人ひとりが独立して配置されている、そういう席配置でした。そんななか、Kozuの前後に女の子が座ったときがあり・・・前はYさん、後ろはMさん。放課後のおしゃべりで前後の女の子とお話していると、Yさんが手を握ってきて・・・。びっくりしましたね。特に好きってわけではなかったのですが、ドキドキしちゃいました。そうこうしていると後ろの女の子が手をとってきて・・・・。前後の女の子と手を握りながら話している、そんな異様な雰囲気の放課後の時間がありました。今でも記憶に残っている妙にモテテたときの記憶です。
    ちなみにMさんからは「ガイド」と呼ばれていました。(教科書ガイドという本を学校に持っていったとき、Mさんがつけたニックネーム。下校のときにもその名前で呼ばれてバイバ~イといわれたことが何度かあった。)
    でも、好きだったのはYさんでもMさんでもなく、バスケ部のIさんとYさん、卓球部のIさんでした。とかく、人生とはうまくいかないものです。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 高校2年生(1987年4月|16歳)

    ・学校生活:2年生
    2年5組。担任の先生は数学の先生でU先生。男子校ではないのに、男子クラスへの配属。(理系志望だったためです。)男ばかりというのは本当に妙な雰囲気でしたね。しかし、イベントがあると男ばかりだけに大盛り上がり。文化祭では最高に盛り上がりました。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 高校 文化祭 戦場のメリークリスマス(1987年6月|16歳)

    ・戦場のメリークリスマス
    高校2年生のとき、文化祭の出し物で、戦場のメリークリスマスの演劇をすることになりました。自分の役割が何だったのかというと・・・脚本でした。たまたま文化祭直前の試験で、国語の成績がよかっただけで脚本になっちゃいました。原作を一応読み、どういう形で短時間で感動を与えるか、副担任のN先生と相談しながら、脚本をつくりあげました。
    リハーサルの結果、一部脚本はみんなの手で変わりましたが、あのときは、大変でした。ちなみに戦場のメリークリスマスの演劇をするために、囚人役となったみんなは丸刈りとなりました。(誰かが教室にバリカンを持ち込んで、
    放課後に断髪式が始まりました。)そして、脚本なのに、自分も丸刈りに。脚本だからこそ、役を演じるみんなと歩調を合わせる必要があったことと、勢いに乗ってやっちゃえーとやるのが好きなほうだったので、結局丸刈りに。
    文化祭を終えた後実際に見た人から「泣いてしまいました」「一番感動した」という感想を聞いてうれしかったなあ。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 高校3年生(1988年4月|17歳)

    ・学校生活:3年生
    3年のときのクラスは忘れてしまいましたが、男子クラスでした。ほとんど2年生と同じ顔ぶれ。担任の先生も同じ。勉強、勉強の毎日で今思い起こしてみるとあまり思い出のないのが高校3年生。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 大学1年生(1989年4月|18歳)

    ・大学1年生
    受験戦争をなんとか抜けて、大学に入学。電車で通学していました。電車の中ではいつも何かの文庫本を片手に読んでましたねぇ。そのとき、ハマったのが、グインサーガ。大量の文庫本を入手し、50冊以上読みきりました・・・。
    学校では、学費がもったいないと思ったせいか、ある程度、マジメに受講しました。でも、学園祭等は遅くまで学校にいたりして、それなりに楽しい学校生活でした・・・。
    夏休みはなぜか、体中に湿疹ができたせいか、バイトにもいけず、今思い出せば何をして過ごしたのか全く思い出せない・・・そんな1年生活でした。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 大学2年生(1990年4月|19歳)

    ・大学2年生
    まだ、一般教養の科目が多い中、単位取得がなかなかすすまず、テストの前には結構追い込みをしてました。高校と違って難しいものは本当に難しかった。得意不得意もなんとなくわかってきましたね。そして、自分が何をおもしろいと思うのかということも・・・。今でもそれが自分の興味の方向を定めたのだと思っています。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 大型家電販売店でバイト(1990年7月|19歳)

    大学2年から2年間、大型家電販売店でバイトをしていた。エアコン取り付け補助、冷蔵庫やテレビの運搬、セッティング、オーディオ機器の店頭説明・販売等。人と話す仕事を初めてしたおかげで、少し緊張するくせが改善された。
    今でも覚えているのは配達先で、お疲れ様と紅茶、ケーキを出されて食べたりしたこと。あれはうれしかった。
    あとは、店頭での売れ筋ランキングの本当の意味を知りました。(笑)

    更新日:2014年3月25日コメントする(0)

  • 大学時代 日雇いバイト(1990年7月|19歳)

    大学生の間にいろいろとアルバイトをしました。

    一番初めにしたのは、日雇いのアルバイト。当時 学徒(がくと)と呼ばれるアルバイト求人情報を提供する組織があり、そこへ通って良いバイトがないか、探していました。一番初めに見つけたのは、マネキンのバイト。(笑) マネキンを倉庫から出し、トラックに運ぶというバイト。マネキンという裸の女性の模型を抱きしめて仕事をするので何だか変な気分だった。それよりも・・・マネキンより大変なものがあって、それは衣装を並べる什器。これが非常に重い。2日間やったのだが、非常に重労働だった気がする。

    そして、次にやったのが、企業のイベント会場を設営するバイト。ヒルトンホテルの大広間に夜に集合し、夜の間に荷物を運んで設営するバイトでした。ところが思いのほか早く終わってしまい、なのに始発にはまだ早すぎるということで・・・ヒルトンホテルの大広間に床で寝させてもらいました。(笑)後にも先にもそんな経験ない。。。。そのあと、始発で帰りました。

    さらにやった日雇がカーペット敷き。簡単なように思っていたら、これがまた重労働。新しいビルの廊下に敷くカーペットで、長さがハンパじゃなく長い。ロール巻きしてあったものを 二人で運んだんだけど、ものすごく重くそして滑りそうになるのを必死に運びました。ほこりっぽいところを一生懸命運びました。しばらくして ビルの近くを通ったらビルがオープンしているのを見て、あそこのカーペット、自分が敷いたんだぞって思ったものです。

    おいしかった日雇いは、美術館の絵画搬入バイト。無料で、芸術品を鑑賞することができたし、荷物の重さはそう思くなかった。最高に楽なバイトだった。

    日雇いにあきたころ、長くバイトをしたものが二つ。
    大型家電販売店のアルバイトと喫茶店のアルバイト。
    それは・・・・また別のときに。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)

  • 喫茶店でのバイト(1992年4月|21歳)

    大学4年生になるころ、父親が遠方地通勤のため下宿していたところへ乗り込む形で実家を離れ、近くにあった喫茶店のバイトを始めた。
    父親は1年ほどした後、再び実家に戻ったのだが、自分はそこに3年間暮らすことになった。
    そこは男の人は店長が一人、アルバイトが一人いたのだが、自分が加わって三人。それに対し、女性が20人弱いるという店で、ほとんど話し相手が女性!
    その店で働いたおかげで、いわゆる女性アレルギー的なものが全くなくなった。同じバイト先で働いていた子と飲んだり、カラオケに行ったり、映画を見に行ったりと楽しく、そして思い出の多い3年間となった。

    更新日:2014年3月25日コメントする(0)

  • 大学4年生(1992年4月|21歳)

    ・大学4年生
    研究室に入り、研究室の机で紅茶を飲みながら、勉強のこと、彼女の話、などいろいろ話したことを思い出します。何度も学校に寝泊りしたこと、良い思い出です。

    更新日:2012年3月25日コメントする(0)