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エクスト社長ブログ「一燈両断」

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きんやさんが最近登録した自分史(経年順)

  • 2,400グラムで小さいながらも元気に生まれる(1973年4月30日|0歳)
    きんや

    大阪府堺市にて誕生しました。

    3人兄弟の末っ子の長男、待ちに待った男の子。

    母親に聞くと、病院で妊娠と診断されたその足で百貨店に行き、青い物を買いそろえたと言うことなので、余程の気合いが込められていたと思います。

    ネットで懐かしい写真を見つけてしまいました!!

    この病院でしょうかwww?

    更新日:2008年10月15日コメントする(0)

  • 宝珠幼稚園に入園(1978年4月|5歳)
    きんや

    入園式に来た父親が

    「ええか、弱い者いじめしたらあかんぞ。」

    と教えてくれたのに対して、

    「父さん、幼稚園は友達を作るところだよ!」

    と無邪気に答えたそうですが、

    実際にはとにかくやんちゃで、手に付けられない傍若無人ぶりを発揮していた。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 初めての通知表(1979年3月|6歳)
    きんや

    初めての通知表はほろ苦い結果に・・・。

    もちろん字の読めない本人は知る由もなかったが・・・。


    年少の頃の先生のコメント
    1学期
    「じっとしていることなく~お話を静かに聞いて欲しいと思います」

    2学期
    「じっとしているのは無理なようでした」

    3学期
    「いたずらが過ぎる事があります」

    更新日:2008年12月4日コメントする(0)

  • 幼稚園最後の通知表(1980年3月|7歳)
    きんや

    幼稚園2年目、私を更生させるために先生の奮闘ぶりがうかがえる。

    1学期
    「自分のおもうようにならないと気に入らないようです。あそびの時間のけじめがつかず、おしゃべりが過ぎ、注意しても反省の色が見られません」

    2学期
    「少し落ち着きがでてきたようです←おっ~!

    3学期
    「小学校へ行ったら遊びと勉強のけじめをはっきりさせてください」←やはりかorz


    ほとんど成長の跡が見えないまま小学校へ。

    更新日:2008年12月4日コメントする(0)

  • 三国ケ丘小学校に入学(1980年4月|7歳)
    きんや

    かけっこだけは早かった低学年時代。

    2年生の時に、クラスの女の子に告白し結婚をせまる作文を書いて、みんなの前で読んだ記憶があります。

    相当にやんちゃだったので、ひやかされる事もなく、ただ相手の女の子に悪いことをしたなと思うこの頃。

    今風に言うと、「空気よめっ!」てことですね。


    相変わらず、通知表の評価は厳しい。

    1年生
    「人の話を最後まで聞けるようにしていきたい。忘れ物をしないように」

    2年生
    「負けず嫌いの強い力を忘れ物をなくす方へもむけてみましょう。今年の冬は、半袖を着て過ごすと頑張っています。」 ←全ての「頑張るベクトル」が違っていますね。

    この時の先生が忘れもしない本田先生。

    厳しくも愛のある指導をしてくれた素晴しい先生でした。

    何度もビンタされた思い出がありますが、先生にかまって欲しくていたずらしてたんだと思います。

    良い時代だったと思います。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 小学校 中学年時代(1984年4月|11歳)
    きんや

    この頃は、3才年上の姉とよく遊んでいたのを覚えている。

    姉をいじめる近所の男の子をほうきで殴り骨折させたのもこの頃・・・。

    実は正義の味方だった!

    はずもなく、通知表の評価はまったく上向かない・・・。


    3年生
    「忘れ物をはじめ学校生活の色々な面に気をつけ、けじめをつけて、落ち着いて、実力を発揮してください。」←この評価によると実力を発揮するには多くの壁があるようです。

    小学校3年生の時に書いた「11年後のぼく」という作文が出てきた。

    そこには「プロ野球選手になって名球界入りしている」と書いてある。

    そして最後に、「集まって1パイのんだりして楽しくやるのです。」とある。

    夢はかなうのだとしみじみ思う。


    4年生
    「詩を書くときは次々と多くの詩を表現することができました。」←その時の詩を発見。

    題名 「小学こう」

    やすみじかんはみじかいが
    べんきょうじかんはながすぎる
    みじかくしてほしい べんきょうじかん
    ながくしてほしい やすみじかん

    評価の基準は質より量のようだ。

    更新日:2008年12月4日コメントする(0)

  • 小学校 高学年時代(1986年2月|13歳)

    この頃の思い出は、一番早かったはずのかけっこで、成長していく友達に追い抜かされたことだ。

    大切なプライドを一つ失った寂しさ・・・。

    友達に初めてかけっこで抜かれた時の場面は今だに鮮明に覚えています(汗)。

    そんな事もあり?

    やんちゃのベクトルが、どんどん大人な方向に。。。

    友達を引連れてゲームセンターに入り浸り、小学生ながら万引き、カツ上げと悪行がエスカレート。


    その頃の通知表はこれだ。

    5年生
    「気分にムラがあるのが気掛かりです。」

    6年生
    「千里の道も一歩から」←やはりあらゆるものから遠いらしい 大事な小学校生活を無駄に過ごしつつ人生を変える一大決心をする。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 私立中学を受験することに(1986年3月|13歳)

    あまりの悪行を見かねた両親が、全寮制の学校に入学させようと、高知県の明徳義塾中高等学校に体験入学に参加させる。

    自然に囲まれた伸びやかな雰囲気に

    「おれ、ここに入るわ!」

    と即決。

    後々地獄を見ることに・・・。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • クラスから総すかんで卒業(1986年3月|13歳)

    無事に受験に合格した。

    クラスのお別れパーティーの際、先生が私立中学にいく人を紹介。

    先生「〇〇くんは、△△中学に行きます。」
    仲間「〇〇くん!頑張って!」

    先生「きんちゃんくんは、高知の明徳義塾中学に行きます。」
    仲間「わぁーー!!!!!バンザーイ!!」


    どうやら私はクラスで嫌われていたらしい(涙)。

    まぁ、仕方ないです。自業自得。

    悲しい気持ちを引きずるほど弱くもなく卒業。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 明徳義塾中学校に入学(1986年4月|13歳)
    きんや

    138センチのかわいい私が初めて親元を離れて生活することに。

    今に思えば、両親の寂しさたるや相当のものだったろう。

    明徳では当時、中学1年生だけ、ゴールデンウィークに帰省することができる。

    1ヶ月間親元を離れ、帰省すると一気に緊張がとける。

    お休みが終わり、高知に戻る。

    横浪半島を走っていると、明徳のキャンパスがちらりちらりと見えるたびに恐ろしく憂鬱になったのを覚えている。

    その日の夜は、あちらこちらからすすり泣きの声が・・・。

    久しぶりの里帰りで集団ホームシックになるのだ。

    それを見越した先輩が

    「大丈夫か~?元気出せよ~!」

    と慰めてくれる。

    なんと美しい光景か!!


    しかし、その1週間後から、強烈な指導が始まるwww。

    掃除、洗濯、学校の準備、食事の準備、ふとん干し、もう何から何まで出来ることはすべて後輩の仕事となる。

    先輩の言うことは絶対服従。すれ違うたびに元気にあいさつ。

    それが24時間続く・・・。

    花粉症が激しく、朝食時には同席の先輩に「きたないんじゃ!われ~(怒)!!」と毎日ののしられた。


    この頃、本格的に野球をはじめる。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 明徳義塾の蛍祭(ほたるまつり)(1986年7月11日|13歳)

    明徳義塾には蛍祭というお祭りがあります。

    まぁ要は文化祭のようなものですが、先生方が模擬店といって屋台みたいなものを出店したり生徒が出し物したりする訳ですが、私はちゃっかりステージで「君は1000%」歌ったりしましたねwww。

    何せ声変わりしてませんから、それはそれはキュートだったのではないでしょうか?!

    それがきっかけで、カラオケの虜になったのだと思います(笑)。



    更新日:2011年5月31日コメントする(0)

  • 忘れられないロッキー4(1986年10月|13歳)
    きんや

    明徳では、中間テストが終わると全校生徒が体育館に集まって、映画鑑賞します。

    1年生の時は「ロッキー4」。

    それはそれは大盛り上がりで、
    「行け~!!」とか「うぉ~!!」とは、もう試合見に行ってる人ぐらいに歓声が上がりますwww。

    最後はロッキーコールで終了(笑)!


    問題はその後です。

    そりゃ~もう、当り前のように始まりますよ。

    寮対抗ボクシング大会。

    1年生通し、座布団もって殴り合い。

    これがまた燃えるんですから不思議ですwww。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 風雲たけし城(1987年4月|14歳)
    きんや

    ロッキーに続き流行った遊びが「風雲たけし城」。

    寮の奥に旗を立て、寮対抗でその旗を奪い合う。

    1年2年は先兵隊で、玉砕を命じられる。

    結局、3年生に返り討ちにあうのですがwww。

    遊びと言っても、ほとんど乱闘です。

    でも楽しかった(笑)!!

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 初めてのお付き合い(1988年4月|15歳)
    きんや

    中学3年生の時に初めて女の子とお付き合いしました。

    淡い思い出です。

    明徳は男女交際禁止で、どちらかが一発退学になるという鬼のように厳しい校則がありました(汗)。

    これがまた燃えるんですよwww。

    谷の向こう側に見える女子寮を眺めて溜息ついたものです。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 明徳義塾高校入学(1989年4月|16歳)

    明徳は中高一貫教育。そのまま高校に進学。

    ここから野球への情熱が一気に高まります。

    現監督の馬淵史郎コーチに守備を認められ、1年生ながら1軍練習に参加!!

    即、4軍落ち!

    中学時代セカンドの4番手だった私にとっては大出世で、これが励みとなり3年間1日も欠かさず自主トレーニングをすることに繋がった。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 大脱走(1990年7月|17歳)

    明徳では、寮生活に耐えられなくなった人がたまに脱走する。

    友達と「一度でええから脱走しとかなあかんな~。」

    という訳のわからない動機で大脱走を決行!

    夜中に抜け出し、体力に物を言わせ、徒歩で高知市内まで辿り着く。

    なぜか職務質問され、帯屋町(おびやまち)の商店街のガードマンに追われ、大学生の一団に取り押さえられる!!

    警察に御用。

    特に何も悪いことしていないので良かったが、変な事件になっていたら夏の予選を出場辞退する所でした(汗)。

    つくづくアホです。

    当然ですが、その後、監督に干され紅白戦すら出れない悲惨な状況に・・・。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 初めて背番号をもらう(1990年10月|17歳)
    きんや

    脱走事件も終わり、夏の予選も敗退。

    すぐに新チームが結成され、いよいよ自分たちの時代がやってきた。

    監督に干されていた私ですが、幸運にも、コーチだった馬淵さんが監督に就任!

    新チームでは、そこそこのポジションに着くことができた。

    その理由というのも、1日も欠かさなかった自主練習をコーチだった馬淵監督が見ていてくれたからだ。

    当時、右打ちだった私がスイッチヒッターになったのも監督のアドバイスがあったから。

    初めての公式戦で、背番号発表の際、
    「俺は努力した人間をメンバーに入れる。きんちゃん!お前や!」
    といって背番号20番をもらった。

    めちゃめちゃ感動した訳です。

    めでたくランナーコーチというポジションに着くwww。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 挫折の日々(1991年4月|18歳)

    どうも私は野球というスポーツに向いていなかったと思う。

    当時の野球日誌が出てきた。

    「エラーを連発して監督さんにブチ回された。なぐられる間はまだマシだと思い、少し安心もした。」とある。←どうかしている。

    そして懐かしい記録が残っていた。

    対池田高校・・・9回裏2アウト満塁、バッター4番でフルカウントの場面。

    2塁ランナーだった私はけん制でアウトになってしまい試合が終わってしまった時の日記だ。

    「もう自分には出番がないかもしれない。でも少しでも信用を取り戻せるように頑張ります。人生の中でも良い体験になりました。この事を、この先の人生にいかしていきたい。人生山あり谷あり」

    悲痛な感情と天性のポジティブが垣間見れる日記だ。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 逆転サヨナラスリーランホームラン(1991年7月|18歳)
    きんや

    甲子園、夏の県予選。

    1回戦の相手は伊野商業。

    明徳中学をやめて伊野商に行った戸田がエースで4番。

    試合は、意外な展開で最終回2アウトランナーなしで、2点差という絶体絶命のピンチを迎えた。

    そして、1番杉山がホームラン。

    2番松下、3番上原がつなぎ、4番の津川が逆転サヨナラスリーランホームランをかっ飛ばした!!

    劇的な幕切れで、めちゃめちゃ感動したのを覚えています。

    写真、上の方から自分が打ったかのようにガッツポーズで走ってきているのがランナーコーチだった私。

    更新日:2008年10月17日コメントする(0)

  • 甲子園出場(1991年8月|18歳)

    1回戦を逆転サヨナラで乗り切ったチームは、決勝まですべて逆転で勝ち上がるというミラクル快進撃を見せた。

    決勝では完封勝利し、見事甲子園出場となった。馬淵監督就任1年目の快挙です。

    ところが・・・

    甲子園ではベンチ入りメンバーが15名。

    県予選メンバーから5名が削られることに。

    そして私がそのうちの一人に(涙)。

    この3年間はなんだったんだ!!

    と正直思ったが、仕方のない事です。

    甲子園では、4番津川が1試合2ホーマー、エース浦田が完封勝ち!

    その後、沖縄水産に敗退し、短い夏が終わった。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 甲子園の想い出(1991年8月8日|18歳)
    きんや

    最後の夏に甲子園の切符を手にした私たちは意気揚々と甲子園に乗り込んだ。

    残念ながら選考に漏れてスタンドで応援する側にまわることになった。

    ベンチ入りした仲間を祝福したい自分とベンチ入りできない悔しさが入り混じった何とも言えない切ない気持ちは口では言い表せない。

    それでも最後の想い出に甲子園練習でノックでも受けれれば思い残すことはないと考えていた。

    そして、甲子園練習が始まりいよいよ待望のノックが始まろうとしていた。補欠とは言え憧れの甲子園でノックが受けれる。多くの高校球児の夢のひとつをささやかながら叶えようとしていた。

    その時、馬淵監督から声が掛かった。

    「来年の事を考えて下級生にノックを受けさせてあげたいんや。解ってくれるな。」

    馬淵監督は、夜の自主練習に付き合ってくれ、最後の最後まで私をベンチに入れ続けてくれた尊敬する恩師。

    「はい。」

    そういってノックのボールボーイに回った私は正直ふてくされていた。

    「誰のための甲子園やねん。。。」

    今になれば監督の気持ちも解るし、それくらいの厳しさがなければ甲子園常連校には到底なれない。でも正直やっぱりつらかった。。。

    そんな折に耳にしたのが「速報!甲子園への道」の応援ソングである「YELL!-16番目の夏-(井上昌己)」。

    この歌の歌詞の中に、

    「 だからキミに伝えたい自分に色褪せないで 16番目のキミでも全部“だいすき」

    というフレーズがある。

    当時の甲子園のベンチ入り人数は15名。つまり16番目とはベンチに入れなかった残りのメンバーをさしているのです。

    何かジーンときたのを覚えています。

    更新日:2013年4月5日コメントする(0)

  • 失恋(1991年9月|18歳)

    そんな高校時代を支えていたのは文通だった。

    幼馴染に恋をしていた私は、携帯電話などなかった時代なのでせっせと文通していたのですが、その子から

    「きんちゃんのチームメートの津川さんが好き!」

    なんて言われてデートをセッティングしたりして、なんだか解らない感じで失恋してしまいました(涙)。

    せつないですね。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 大学受験(1991年12月|18歳)
    きんや

    引退後、進路を大学進学に決定。

    野球で大学に行きたかったのですが、セレクション(野球での受験)の資格である身長制限に引っ掛かり断念。

    勉強で受験することに。

    授業中、寝てばっかりだった上に、団塊ジュニア世代の人口過密世代。

    なんとか千葉商科大学に合格した。

    合格記念の1枚。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 大学ライフ(1992年4月|19歳)
    きんや

    大学に進学するも、これといって目標もない毎日に堕落が始まる。

    仕送りがなく、一人暮らしを維持するためにバイトに明け暮れる日々。

    居酒屋で昼、夜働き、冬はスキー場で住み込みのバイト。

    2年生を2回経験し、3年で中退。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 松井の5敬遠(1992年8月|19歳)

    母校が甲子園でえらいことをやらかしちゃいました。

    松井選手の5敬遠。

    4番とキャプテンは私の弟子。

    球場にいましたが、あの異様な雰囲気は忘れられないです。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 新婚旅行と阪神大震災(1995年1月11日|22歳)

    結婚式が終わり、数日後、新婚旅行に行く日の朝。

    早朝4時に起床し、歯を磨いていた時、大きな地響きと共に地震が起こりました。

    阪神大震災です。

    異常な揺れと地鳴りの恐怖は今も記憶から離れません。

    数時間後のテレビで、阪神高速が倒れているのを目の当たりにし、ことの重大さを感じました。

    もちろん、新婚旅行はキャンセル。

    未だ実現していません・・・。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 美容室に就職(1995年1月15日|22歳)

    大阪に戻ってきた私は、母の勧めもあり美容室に入社することになりました。

    この社長の下で勉強しなさいということだったと思います。

    野球三昧で美容室なんて入ったこともないですし、ワクワクしながら働いたのを覚えています。

    ところが手荒れがひどくて夜中にかきむしる日々・・・。

    周りの社員さんは、年下の先輩という状況でしたが、全然気にせず美容師ライフを満喫しましたwww。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 天使が・・・(1995年6月9日|22歳)
    きんや

    娘が誕生しました!!

    命名は「明音(あかね)」。

    いつも明るい音を奏でて欲しい、そんな思いで名づけました。

    天使ですよ。。。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 超プリティ(1995年6月9日|22歳)
    きんや

    親になって親の気持ちを知るわけです。

    いい加減な人生を送ってきた自分でも、親にとってみればかわいいんですね。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)

  • 死んでわびる(1995年10月|22歳)

    この日を境に人生を一変させる事件が起こりました。

    家に帰ると暗い顔をした家族の姿が。

    何が起こったのか聞いてみると1通の手紙を差し出された。

    父親からの手紙だった。

    当時、商売をしていた父は、保証人やギャンブルで多額の負債を抱えていたのだ。

    手紙には「死んでわびる」の文字が記されていた。

    これをきっかけに美容室を退職し、家業の電気店を手伝うことになる。

    まさに人生の転機だった。

    更新日:2008年10月8日コメントする(0)